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八百万の内緒の仕事  作者: 灯屋 いと
第一章 神様、拾いました

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命を守った

 いろはすを一本飲み干すと、男はけろりとした顔で立ち上がった。さっきまで水際で死にかけていた人間とは思えない身のこなしで、軽く伸びをして、首を鳴らす。蒼はレコーダーを提げたまま、その様子をただ見ていた。

「助かった。お前、いいやつだな」

「……はあ」

 礼を言われ慣れていない。蒼はどう返していいかわからず、視線を逃がした。とにかく早くこの場を離れたかった。知らない人間と二人でいる時間は、それだけで体力を削る。

 帰ろう、と踵を返す。背後で、ついてくる足音があった。振り返ると、男が当然の顔でついてきている。

「……なんで」

「いや、まだちょっとふらつくんだよな。水、もう一本ない?」

「ないです」

「じゃあ、お前んち行っていい?」

「は?」

 言っている意味が、すぐには飲み込めなかった。初対面の人間が、行き倒れていた相手の家に上がろうとしている。普通なら断る場面だ。断るための言葉なら、いくつも頭に浮かんだ。けれど、そのどれもが口から出てこない。

 蒼は昔から、自分で関係を切るのが下手だった。来られたら応じてしまう。押し返すための体力が、最初からどこにも積まれていない。

「……ちょっとだけ」

 気づけば、そう言っていた。男は嬉しそうに笑って、当たり前のように隣を歩きはじめる。なんでこうなった、と思いながら、蒼は夕暮れの道を家に向かった。

 歩いている間、男はよく喋った。中身のない世間話で、蒼はほとんど相槌しか打たない。それでも、声だけは妙に耳に残った。低くもなく高くもない、どこか水の流れに似た響きがある。いい声だ、と思いかけて、蒼は首を振る。今は音源どころではない。

 アパートは、上野公園から歩いてすぐの楽器可のボロ物件だった。八畳の1K。家賃が安いのは楽器が弾けるからで、その代わり壁は薄く、床はわずかに傾いでいる。蒼にとっては、それで十分だった。

 ドアを開けると、男は遠慮なく入ってきた。靴を脱ぐことだけは知っているらしい。部屋の半分は機材で埋まっている。デスクとモニターとオーディオインターフェース、それから壁一面のメモ。そこだけは整然としていて、ほかは服とコンビニ袋が散らかっていた。蒼の聖域はデスクの一角だけで、男はそこには近づかず、まっすぐ冷蔵庫に向かう。

「水、もらうぞ」

「あ、麦茶なら——」

 返事を待たず、男は冷蔵庫を開けた。中には自作の麦茶のボトルと、卵と、納豆。それから、いつか安売りで買ったまま忘れていた緑色のボトルが一本。男の手が、迷わずその緑のボトルを掴んだ。ラベルを一瞥して、表情が変わる。さっきまでのへらへらした顔が、すっと真顔になった。

「これ、どうした」

「え、なんか安かったから……」

 男は流しに向かうと、キャップを開けて、中身を惜しげもなく流していく。とぽとぽと、水が排水口に消えていった。

「ちょっと、何して」

「捨てた」

「俺が買ったやつなんだけど」

「命を守った」

「お前のだろ」

 男はけろりとした顔で、空になったボトルをこちらに差し出す。悪びれた様子は、微塵もない。蒼は受け取りながら、この人間とは話が通じないのかもしれない、と思いはじめていた。さっきから、水のことしか言っていない。

 男は次に、台所の蛇口をひねった。手のひらに水を受けて、匂いを嗅ぎ、ひと口含む。しばらく真剣な顔で味わってから、満足げにうなずいた。

「ん。塩素の匂いはするけど、ちゃんと日本の水脈だ。合格」

「……水道水を、利き酒みたいに」

「水道水を馬鹿にすんなよ。日本の水は世界一なんだから」

 誇らしげに言うので、蒼は何も返せなかった。変な人間を拾った、と思う。やたら顔がよくて、水にだけ異常にうるさい、行き倒れの男。世の中には、いろんな種類の変人がいる。たぶんこれもそのひとつなのだろう。

 その時はまだ、蒼は本気でそう思っていた。


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