五苓散より早いだろ?
梅雨の谷間は、気圧がころころ変わる。
その日、蒼は朝から頭が重かった。低気圧が近づくと、決まって頭の奥が鈍く痛む。藝大のころに知り合いから教わって以来、蒼はこういう日のために、五苓散という漢方を常備していた。ぬるい麦茶で一包流し込んで、デスクに突っ伏す。
くらが、窓の外を見て言った。
「気圧、下がってきたな」
「知ってる。五苓散飲んだ」
「は? なにそれ」
「気圧の頭痛に効く漢方」
くらは、心底けげんそうな顔をした。
「……そんなもん飲まなくても、俺が気圧戻せばいいだけじゃん?」
「いや、低気圧戻すってスケールが」
「ちょっと待ってろ。すぐ戻す」
「コンビニ行くみたいに言うな」
止める間もなかった。くらは窓を開け、雨の匂いのする空へ向かって、軽く手をかざした。例の、声にならない音が、唇からこぼれる。
蒼の頭痛の奥で、何かが切り替わるのがわかった。重く垂れこめていた空気が、ゆっくりと持ち上がっていく。雲の動く速さが、あきらかにおかしい。窓の外で、雨脚が見る間に弱まって、やがて、すうっと止んだ。雲の切れ間から、白っぽい光が差してくる。頭の重さも、嘘のように引いていた。
「……戻った?」
「戻した」
くらは、得意げに振り返る。蒼は、開いたままのスマホを見た。天気予報のアプリに、通知が来ている。
《本日、急速に発達するとみられていた低気圧が、急激に勢力を失っており……現在、原因を調査中です》
ニュースサイトの速報にも、似たような見出しが並んでいた。気象の専門家が「観測史上、説明のつかない動き」とコメントしている。
「……お前だろ」
「五苓散より早いだろ?」
くらは、心底どうだという顔をしていた。蒼は、スマホの画面と、雲の晴れた空と、得意げな龍神を、順番に見る。
「気象庁が、混乱してんだよ」
言いながら、背筋が、少しだけ冷えた。
今まで蒼が見てきたのは、路地のばあちゃんの周りの、ほんの小さな湿気だった。それでも十分すごいと思っていた。けれど、これは違う。一つの低気圧を、丸ごと。日本じゅうの人間が見上げている空を、この男は、頭痛持ちの同居人ひとりのために、片手で書き換えてしまった。
なのに、世間はそれを「原因不明の異常気象」で片づける。誰も、龍神が窓から手を伸ばしたなんて、思いもしない。
「録らないからな」
くらが、先回りして言った。
「……まだ何も」
「顔に出てる」
今日は、誰も彼も、蒼の顔から考えを読む。蒼は、伸ばしかけた手を、おとなしく引っ込めた。録れなかった音より、たった今見せられたものの大きさのほうが、頭から離れなかった。




