遠雷
かの者は、人の声を話した。
だが村人たちは、それを「魔族の声」として聞いた。
私は幼き頃より、祖父のもとで育った。
祖父は牧師であり、学者であり、隠遁者であった。
人々の信仰が“神”から“勇者”へと移り変わるなか、
祖父だけは黙して語らず、祈ることもなければ、剣を振るうこともなかった。
祖父の書斎には、千を超える書物があった。
その中には、魔族の詩があった。
かつて魔族が文字を持ち、物語を編んでいたという証である。
私はある日、問うた。
「おじい様、魔族にも心はございますか」
すると祖父はしばし沈黙し――やがて、ぽつりと答えた。
「それを疑うことを、許されぬ世になったのじゃ」
十七の折、私は北辺の村へ赴任した。
王国が新たに設けた「魔族警戒所」への見習い役人としてである。
村は静かだった。
人々は貧しく、だが勤勉で、子らは礼儀正しかった。
ただ一つ、奇妙な風習があった。
**「村の外れに近づくな」**と、誰もが言うのだ。
それでも、私は歩いた。
ある夜、ふと月に誘われて、その外れの林へと。
そこにいた。
“それ”は、私と同じ姿をしていた。
だが、目が違った。
深く、どこか懐かしい、雨の日の井戸の底を覗いたような眼だった。
「……人間ですか?」
と私は訊ねた。
すると、“それ”は口元に微かな笑みを浮かべ、こう言った。
「……それを決めるのは、あなたの国ですね」
私は、逃げなかった。
“それ”も、襲わなかった。
私たちは何も交わさず、ただ黙って、月を眺めていた。
翌朝。村はざわめいていた。
「魔族が出た」と。
誰かが見たと。
子供が一人、姿を消したと。
私は何も言わなかった。
言えば、“それ”が殺されると分かっていたからだ。
だが――
何も言わなかったのは、“それ”が魔族であることを、
私自身が否定しきれなかったからでもある。
数日後、“それ”は殺された。
勇敢なる巡礼者によって。
“それ”は一矢も放たず、ただ倒れたと聞いた。
都へ戻った私は、祖父の墓前に立ち、ひとりごちた。
「おじい様。
魔族は確かに嘘をつく生き物でした。
ですが――私たちも、嘘にすがって生きている」
その日、空に遠雷が響いた。
夏の終わりを告げる、澄んだ音だった。
私は空を見上げた。
灰色の雲の隙間に、どこか人間らしい雨が垂れていた。