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八六七の春  作者: 妙春
八六七の春
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八六七の春5

 私が雨が降るたびに屋上へ上がるようになったのと、ちょうど同じ頃。松下家でちょっとした事変がありました。

 お母さんから「ホームセンターへ花の苗を買いに行くからついてきて」と言われ、私たちは二時間ほど外出しました。そして家に帰ると、私と母が家を出る前は普通に仲良くしていたはずのお父さんとチョモランマが、なぜか不仲になっていました。リビングでチョモランマがお父さんに向かって、ヴーッ、と唸って吠えています。

 母と二人で顔を見合わせ、お父さんに「一体何をしたの?」と問い詰めます。父は「何もしてない」と答えました。私のお父さんは常識のある人なので、虐待したりはしていないでしょう。ですがチョモランマは、私と同じで繊細な性質をしていますから、彼の気に触る些細(ささい)な何かがあったのかもしれません。

 短い留守中に両者の間に何があったのかは、ついぞ不明のままですが。このことをきっかけに、室内で大切に育てられていたチョモランマは、お外の子になってしまいます。大型犬ですから、お庭で飼うこと自体は、決して不自然なことではありません。しかし私たち家族にとっては、大打撃(だいだげき)でした。〈空気清浄機〉をお外に出してしまったようなものです。チョモランマ以外の誰も、お家の雰囲気を浄化出来ません。彼が常に振りまいている癒やしの波動みたいなものに、これまで私たち家族は救われていました。


 近頃の私の素行不良は深刻でした。お家を出ても学校へは行かず、学校から歩いて20分ほどの場所にあるTS*TAYAの視聴コーナーで、ずっと音楽を聴いて時間を潰しているか、最寄り駅についても下車せずに、環状線をぐるぐる回り続けているかの、大体どちらかでした。母の携帯には毎日のように担任の先生から「松下さんは今日も学校へ来ていないのですが」と電話がかかってきていたそうです。そんな日々は、母を(さいな)みました。

 私の母は中学から大学までエスカレーター式の私立でぬくぬくと育ち、卒業後も就職活動などはせずに、会社を経営していて幅広く顔の利いたおじいちゃんのコネで、一流企業を三社ほど転々としたのち、あっさりお見合いして経済力のあるお父さんと結婚。お嬢さま育ちの上、娘の私から見ても贔屓目(ひいきめ)なしに美人でしたから、結婚前はたくさんの男性からかなりチヤホヤされていたということを、母本人やおばあちゃんから伺っています。そんな余裕な人生を送ってきた──人生は何でも上手くいくのが当たり前だった母は、何やら上手くいっていない様子の娘──小さい頃は優等生だったけど、成長したらそうでもなかった私に対して、多大なストレスを感じていたことでしょう。この頃から、母との関係に軋轢(あつれき)が生じ始めます。

 母は私が小学校でいじめられた時は、担任の先生に文句を言いに行きましたし、塾でいじめられた時も、手紙を回した子を呼びつけて説教しました。中学一年生くらいの頃までは、テスト勉強はつきっきりで見てくれていました。私の身につけるファッションや文房具などの持ち物一つとっても、口を出すタイプです。過保護で子どもをコントロールしたいだけといえばそうなのでしょうが、私は小さい頃は、母からとても愛されていると感じていました。

 一方で私は幼い頃から、母の機嫌には敏感な方でした。なので不登校になってからの「どうして学校へいけないの?」「どうしてテストで良い点数がとれないの?」という母からの無言のプレッシャーには、非常に辟易(へきえき)していました。

 お父さんは平日はずっと仕事でいませんし、休みの日は一人で自室に引きこもって、世界遺産の映像か任侠(にんきょう)映画を延々と見ているような静かな人でした。ご飯でリビングへ来る時も「いただきます」や「ごちそうさま」も言わず、家族との会話もせずにテレビばかり見ていました。私の教育方針については母に任せきりという感じで、私の志望校を天王星学園に決めたのも母です。父は私が今不登校だということを知りません。実は私は、実家でお父さんと話をした記憶があまりありませんでした。父も独身時代は母に薔薇の花束を持って行ったりと、かなり熱心に求婚したそうなのですが、私が物心ついた頃には、すでに良好とはいえない夫婦関係になっていました。父と母の会話は、子どもたちを挟んで、なんとか成立しているような感じでした。でもその子どもたちの方もずっと元気がありませんでしたから、松下家ではチョモランマだけが頼りでした。

 私の帰宅時にはいつも、100年は会っていなかったかと思うような歓迎っぷりで、尻尾をはちきれんばかりに振ってくれた彼。中学生の時の私はまだ、彼に体格で負けていましたから、しょっちゅう玄関で押し倒されていました。だけどチョモランマのもふもふに顔を埋めているその瞬間だけは、嫌なことを全部忘れることが出来ました。そんな私を見て、母も「今日学校へ行かなかったでしょ!」と怒る気概(きがい)を削がれていたと思います。チョモランマという緩衝材(かんしょうざい)を失ってしまった私たち家族は、次第に微妙な関係になっていきました。


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