八六七の春3
中学二年生の頃の私は、ほとんど毎日金縛りにあっていました。夢の中で、少し古風な街並みの川沿いを馬に乗って歩いていたかと思うと、突然川の中から手が伸びてきて引きずりこまれ、そのまま現実でも金縛りが起きて、動けなくなってしまったり。父方の三代前のお祖母さんを名乗る人が出てきて、フラッシュカードのように何枚かの絵をめくって見せて、何かを訴えてきたり。「騙された、騙された」とずっと言っている男の人がいたり。ほとんどの場合は「夜中二時頃に目が覚めてただ身体が動かなくなる」というパターンでしたが、それだけでも怖かったです。
私は疲弊していました。母の実家から般若心経の全文がプリントされた毛布をもらってきて、気休めにかぶって寝ていましたが、あまり効果はありませんでした。今思い返してみても、あらゆる面においてどん底にいました。だけど、風向きは必ず変わります。
***
夏休みのある日。母は突然「支度をして」と言い、私をおめかしさせて、車に乗せました。「どこへ行くの?」と尋ねると、名付け親のところだと言います。私の名前をつけてくれた人は、〈ハウス・オブ・アマナカ〉という、今は解体されてしまっていますが、いわゆる財閥の末裔だと伺っています。戦前はロ*クフェラービルの前に本社があったのだとか、G*Qのマ*カーサーが戦後初めて日本へ視察に来た時、飛行機を降りてお付きの者に放った第一声が、「天中は無事か?」だったのだとか。つまり、とんでもない雲上人なのですが。その天中家の生き残り──天中五一さんが、母の書道の先生だったらしく、四柱推命をよまれるため、私の名付けを頼んだそうです。昔からよく話には伺っていたのですが、実際に会うのは初めてのことでした。
私の五一先生に対する第一印象は、〈怖い〉でした。
「天中五一です。よろしくね」
お屋敷に通されて初めて彼女を見た時、家柄のイメージから、後光が差しているように見えたということもありますが、それだけではありません。この頃の私は、自傷癖がついてしまっていたのですが、五一先生は、傷になっている私の手首を見て、怒ったような顔をしました。
「あなたは、その身体が自分のものだと思っているんでしょう」
有無を言わせぬ雰囲気に、私は押し黙ります。けれど続いたのは、想像していたよりも、ずっと優しい言葉でした。
「あなたのその小さな身体はね、〈宇宙の一部〉なんですよ。だから、勝手に自分で自分に傷をつけちゃいけないの。身体だけじゃない、心もですよ。私たちはみんな、自分のことを宝物のように扱わなくちゃならない。わかったら二度と切らないでね」
「……はい」
大人しく頷きます。これまでそのようなことを言われた試しがなかったからです。彼女に嫌われたくないと思いました。それはすごく怖いことのような気がしたから。その理由についても、私はのちに理解します。私が彼女を怖いと思った理由──それは彼女が彼女自身を、宝物のように扱っていたから。彼女は自分のことを決して貶めず、それどころか敬うようにしていたから。だから誰もが五一先生を宝物のように扱ったし、彼女を蔑ろにしてはいけないのだと、直感的に私にも感じさせました。宇宙を取り巻く〈物理法則〉を、五一先生はこの時、少しだけ私に教えてくれたのでした。
「……軽蔑しないんですか、私のこと」
悪い噂がたくさんあって、お勉強も出来なくて、最近は学校へもろくに通っていません。
「あなたは別に、不良じゃありませんから」
「…………」
そのたった一言で救われました。落ちぶれてから初めて「わかってもらえた」と思いました。財閥の末裔──そのパワーを彼女に与えてくれてありがとう。私は神さまに感謝しました。彼女は真実として、その力を持つのにふさわしい人間です。だって強い力を、人を虐げるためではなく、ゆるすために使える人間なんですから。
私は色々なことが、自分の力では、もうどうしようもありませんでした。わけのわからない異形に毎夜うなされるなんて、たとえ言ったとして、誰が理解してくれるのでしょう?そのせいで体調も悪くて、お勉強も出来なくなって……私は、本当は賢いのに。わからない……賢くなかったのかもしれません。でも、これはありのままの私じゃないんだって、ずっと心の中で叫んでいました。誰にも届くことのないはずだった叫びを、この時わずかに、五一先生が拾ってくれました。彼女は落ちぶれた私のことを、〈悪い子〉だって言わなかった。本当は良い子なんだよって、言ってくれました。悪いことをする子に「お前は悪い子だ」ということは、誰だって出来ます。でも悪い子を立ち直らせるために必要な言葉は、それじゃない。大勢の大人たちに後ろ指を差される中、五一先生だけが、この時私が本当に必要としていた言葉をくれました。
それから私は、ひととおり家の中を案内してもらいました。彼女が一人暮らしをしているこの屋敷は、驚くべき〈神仏御殿〉でした。一階の居間からみえる奥の離れの部屋には、金龍の〈羽衣さま〉がいらっしゃり、そこへ至る庭には〈四七観音さま〉がたたずんでいらっしゃる。二階の部屋には、双龍の〈緋月さま〉がいらっしゃり、〈緋月さま〉の片割れの〈水月さま〉は、天中家の向かいに位置している、老舗のお米屋さんにいらっしゃった。また二階の蔵の中にある、先祖代々受け継がれる雛人形には、黒龍さまが巻いていらっしゃりました。
五一先生は実に、四体もの神仏のことを、その身ひとつで依代としていたのです。まれに〈龍の一族〉には、このような女性があらわれます。五一は、生涯未婚を貫くことを約束した身でした。小さい頃に母から「あなたの伴侶はこの世にはいない」と言われたことがあり、そのさだめを受け入れたのです。そのため皇室からきた見合いの話も断りまた。名家というものは、決まってこういう仕組みになっています。つまり神のエネルギーを支えるために、俗界には決して混じらぬ〈祈り子〉が必要でした。
私は彼女のことが大好きになりました。彼は私が手首を切ることには怖い顔をするのに、学校へ行かないことや、勉強が出来ないことは、絶対に怒りませんでした。私は次第に、天中家のお屋敷に入り浸るようになります。学校へは行きたくありませんでした。私を心配してイライラしているお母さんと一緒にいるのが辛くて、家にも帰りたくありません。
天中家のお庭にある、四七観音さまの像に祈ると、私はいつも少しだけ身体が楽になりました。この観音さまは、本当に祈らなければならない相手と、未だ再会出来ていない私の心の拠り所でした。観音さまのいるこのお屋敷では、眠っても金縛りにあいませんでした。私は夜眠れない分を、天中家のお屋敷で補っていました。