2人の灯り
カフェのガラス扉を押し開けると、暖かな空気とコーヒーの香りがふわりと身体を包んだ。
「……早く着いちゃったかな」
美音は入り口のそばでマフラーをほどきながら、店内を見渡した。奥の二人掛けの席——そこは、春に偶然夏樹と隣同士になった席だった。
あのときは、話しかけられるとも思っていなかったし、まさかそこからこうして再び会うことになるなんて、想像すらしなかった。
店内はほのかにクリスマスムードが漂い、窓際の席には小さなイルミネーションが飾られていた。
美音はその席の近くに腰掛けると、膝の上に手を置いて深呼吸した。
(緊張する……)
しばらくして、扉のベルが鳴った。
「あ……」
彼女の声は、呼びかけになる前に空気に溶けた。
夏樹が少し照れたような顔で中に入り、美音を見つけると軽く手を上げて歩み寄ってきた。
「ごめん、待った?」
「ううん、私も今来たとこ」
口調は自然なつもりだったが、互いの視線が何度か逸れる。
座ったあとも、どちらからともなくメニューに目を落とし、開いたページをやけに丁寧に眺める。
「えっと……久しぶり、だよね」
「うん。なんか、こうやってちゃんと会うの、緊張するね」
「わかる……。電話とか、メッセージではたくさん話してたのに」
ふたりの間に置かれたメニューの上に、わずかな沈黙が降りる。
その静けさが、居心地悪いというよりも、互いを大切にしようとする遠慮に満ちているようで、どこかくすぐったかった。
「最近は、どう? 大学のほう」
夏樹が言葉を選びながら尋ねた。
「うん、まあまあかな。文化祭の準備でちょっと大変だったけど。あと……サークルも、最近ようやく馴染めてきた感じ」
「そっか。……そういうの、メッセージではあんまり言わなかったよね」
「うん。言おうとして、なんとなく流しちゃってたかも」
「俺も……似たような感じだな。言葉にしようとして、うまくまとまらなくてさ」
「うん、わかる」
ふたりはふっと笑った。それは共通点を見つけたというより、「なんだ、同じだったんだね」と安堵するような微笑みだった。
店員が二人分の飲み物を運んできて、再びふたりきりになる。
「夏樹くんって、大学でも相変わらず真面目そうだよね」
「いや、そんなことないよ。単位ギリギリだったりするし……。でも、美音は……なんか、大学でもちゃんとやってそう」
「そう見えるだけかも。慣れるのにけっこう時間かかったし、実は一人で落ち込んだりもしてた」
「……そうだったんだ。話してくれればよかったのに」
その一言に、美音は少し戸惑ったように目を伏せた。
「なんか、言っていいのかわからなくて」
「俺は、話してほしかったけどな」
その言葉の優しさが胸に響いた。けれど、同時に、ふたりの間にある目に見えない“揺らぎ”のようなものを美音は感じ取っていた。
(こうして連絡を取るようになって、会う約束もできた。でも——)
彼の知らない時間があって、自分も知らない彼の日々がある。
画面越しに話していたあの距離感では気づかなかった、ささやかな差異が、今は妙に鮮明に見えてしまう。
「……そういえば、この間送ってくれた紅葉の写真、すごくきれいだったね」
話題を変えるように美音が口にすると、夏樹は少しうれしそうにうなずいた。
「うん、あのとき偶然撮れたんだ。けっこうお気に入り」
「うん、わたしもああいうの、好き」
——ほんの一瞬、互いの好みが重なっただけなのに、それが妙にうれしい。
けれど、そのあとのやり取りで、些細なすれ違いが生まれた。
「写真って、スマホ越しだときれいだけど、実物には敵わないよね」
「そうかな。俺は、逆に写真に残る“瞬間”のほうが特別だなって思う」
「……あ、うん。そうかも」
否定されたわけじゃない。意見の違い。それだけのはずなのに、美音は心のどこかがひやりと冷えた気がした。
(今までだったら、文字のやりとりだけだったから、こんな風に微妙なズレに気づくこともなかったのに)
夏樹もまた、彼女の間の取り方に、わずかな変化を感じていた。
それでも、コップを手に取る彼の指先は、どこか安心を求めるような優しさを帯びていたし、カップを握る美音の手元は、ほんの少しだけ夏樹の方へと傾いていた。
互いの日常に、お互いが入り込んでいる。
けれどそれは、まだ名もない関係の上にかかる、細くて、消えてしまいそうな糸のようなもの。
「……またさ、来年もこうして会えたら、いいよね」
それは夏樹の口から、思わずこぼれたような言葉だった。
「うん、わたしも。たぶん、こうやって会えるのが……私にとって、すごく特別なんだと思う」
そのとき、ふたりのあいだにあった微かな緊張が、ようやく少しだけ溶けた気がした。
カフェの外は、冬の夜。
窓の向こうでは、街灯が静かに光を灯している。
ふたりの心に宿るその小さな灯りが、これから先も続いていくことを、まだふたりは知らない。