言えなかった約束
翌朝、目が覚めると、まだ昨夜の声が耳の奥に残っていた。
佐々木夏樹は布団の中でスマートフォンを手に取り、通話履歴を開いて、そこに残る「美音」の名前をしばらく見つめていた。
「……ほんと、話せてよかったな」
思わず呟いたその声は、少し照れていた。
特別なことを言ったわけでもない。けれど、あの夜の会話には、確かにふたりの距離を少しだけ縮めた何かがあった気がする。
紅葉の話、教室の思い出、そして――「また話そう」と言ってくれた彼女の声。
それが、今も胸の奥にじんわりと残っていた。
大学の講義があったが、内容はほとんど頭に入らなかった。
教授の声が遠くに聞こえる中、夏樹はふとスマホを手に取り、カメラアプリを起動した。
窓際の椅子に差し込む日差し、ほんの少しだけ色の残る銀杏の葉――それを切り取って送る。
《今日のキャンパス。なんか、もう冬の空気だね》
すぐには返事は来なかった。けれどそれでもいい。
返ってくると信じられることが、どこか心地よかった。
*
その頃、美音は大学の図書館でレポート課題に取りかかっていた。
けれど、指先はノートパソコンのキーボードに触れたまま、画面を見つめるばかりで、何も書けない時間が続いていた。
机の端に置いたスマホが震える。
着信ではなく、LINEの通知だった。
《今日のキャンパス。なんか、もう冬の空気だね》
送られてきた写真には、柔らかな日差しと静かな空気が映っていた。
見ているだけで、胸の中があたたかくなる。
(……ずるいな)
そう思いながら、自然と口元がほころぶ。
美音は指を動かして、返信を書いた。
《わあ、素敵。こっちは今日風が強くて、寒すぎて手が凍えた……》
《昨日の声、まだ残ってる。ちょっと元気出た》
送ったあと、すぐに画面を閉じた。
そのまま顔を伏せて、両手で頬を挟む。
(ああ、なに言ってるんだろ、私)
まるで告白のような言葉だった。
けれど、それが本音だった。
彼の声が、昨日の夜の静けさをやさしく照らしてくれて、それだけで眠りにつくまでの時間が柔らかかった。
(会いたいな)
そう思うのは、きっと自然なことだ。
でも、どんな理由で会えばいいのか、わからなかった。
「冬休みに帰省したら、会えるかな?」
その一言が言えなかった。
タイミングを逃したとか、言い訳はいくらでも浮かんだ。
でも本当は、もし「行けない」と言われたらと思うと、怖かったのだ。
*
その夜、また美音からメッセージが届いた。
《冬って、なんか寂しいけど、空がきれいだね》
《ちょっと寒いけど、好きな季節かも》
その言葉に、夏樹は思わず返信する。
《わかる。空気が澄んでて、星とかすごく見えるし》
《冬って、人恋しくなるよね》
数秒後、美音からの既読がついた。けれど、そのまま返信は来なかった。
夏樹は、ベッドに寝転びながら、天井を見つめた。
心に広がっているのは、冬の空のような静けさと、ほんのりとした期待だった。
会いたい。声じゃなくて、目を見て話したい。
そう思う気持ちが、確かに自分の中に芽生えていることを認めるのが、なんとなく怖くて、でもどこか嬉しかった。
*
スマホを握りしめながら、美音もまた、小さくため息をついた。
「……言えなかった」
会いたい。冬休み、もし帰省するなら、地元で少しだけでも会えたら――。
その言葉が喉元まで出かかったのに、送信ボタンを押す直前で止めてしまった。
何度か言い直してみたけれど、「やっぱり違う」と思って消してしまう。
その繰り返しの中で、夜は更けていった。
でも、ほんの少しだけ、希望があった。
昨日、あんなふうに話せたこと。今日、写真を送ってくれたこと。
それだけで、心は不思議と満たされていた。
「……また電話、しようね」
画面には残らない小さな言葉が、冬の夜に溶けていった。