君と、あの春をもう一度
風がやさしい春の終わり。あたたかな光の下、街は新しい季節の気配に包まれていた。
大学の前期が始まり、美音の日常も少しずつ忙しくなってきた。講義、課題、ゼミ、そして新しくできた友人たちとの交流。けれどその中に、確かにひとつだけ、変わらずにあるものがあった。
――週に一度、夏樹と会う約束。
すべてが順調というわけではない。会えない週もあれば、うまく言葉にできない日もある。それでも、その約束がふたりの時間を少しずつ積み重ねていた。
この日は、そんなふたりの約束のひとつだった。桜の花がすっかり散った街を、ふたりは静かに歩いていた。
*
目的もなく歩く道。特別な予定もない。ただ、話したいことが少しだけあった。
「今日ね、キャンパスのカフェテリアで、あのときのクリームパンの話したら、友達にすごい笑われたの」
「そりゃ笑うでしょ。俺も未だに謎だもん、あの味」
「今でもちょっとトラウマになってるくらい」
夏樹が笑いながら頷き、美音もつられて笑った。こんなふうに笑える日が、あの日の自分たちに見えていただろうか――そんなことをふと思う。
「……不思議だよね」
「何が?」
「こうしてる時間が、あたりまえみたいになってるのが」
夏樹は、しばらく言葉を探してから、そっと答えた。
「当たり前って、特別なことだと思う」
その言葉に、美音はゆっくりと頷いた。
*
日が傾き始めた頃、ふたりは丘の上の公園にたどり着いた。見晴らしのいいベンチに座り、春の風を頬に受けながら、ただ並んで空を見上げた。
沈黙が流れる。けれど、それは心地よい沈黙だった。
「……進路、決まったんだ」
ふいに夏樹が口を開いた。
「本当に、先生になるんだね」
「うん。迷いもあったけど、やっぱり教えるのが好きなんだなって思って」
「うん。夏樹なら、きっといい先生になると思う」
「ありがとう。……でもさ、それだけじゃなくて」
「うん?」
「……ちゃんと、未来のことも考えたいって、思うようになったんだ。仕事だけじゃなくて、生活とか……誰と、どこで過ごすのかとか」
言葉の端々に、慎重な色があった。それでも、美音はその奥に込められたものに気づいていた。
「美音となら、ちゃんと考えていける気がする。ゆっくりでいいから、一緒に……これからを歩いていけたらって」
その声はまっすぐで、優しかった。
美音は、うん、と小さく頷いた。
「わたしも、そう思ってるよ」
目を合わせたまま、ふたりは小さく笑い合った。そこに、誓いや約束の言葉はなかった。ただ、同じ気持ちを確かめ合う、それだけで十分だった。
*
日が沈み、街に灯りがともり始める。
ふたりは並んで歩き出した。何度も通った帰り道。変わらない景色のなかに、新しい意味が少しずつ宿っていた。
「高校のときさ、まさか自分がこんなふうになるなんて思ってなかった」
夏樹が、ふと笑うように言った。
「わたしも。あのときは、“好き”って気持ちだけで精一杯だった」
「でも、ちゃんと伝えてくれてありがとう。あのとき、美音が言ってくれなかったら、俺たち、きっとまたすれ違ってた」
「ううん。わたしのほうこそ。大切だって言ってくれたとき、すぐには答えられなかったけど……あの一言がずっと支えだったよ」
ふたりは顔を見合わせて、小さく笑った。
「これからも、きっといろいろあると思う。だけど――」
「――それでも、ちゃんと話して、ちゃんと笑って、ちゃんと進んでいこう」
言葉が自然に重なった。
言葉よりも、きっと大切なもの。
それは、時間を重ねること。
何気ない日々のなかで、想いを育てていくこと。
そして、ふたりで“これから”を作っていくこと。
光の残る道を、ふたりの影が並んで伸びていく。
その足取りは、たしかに未来へと続いていた。




