これからを重ねるということ
電車の窓から差し込む午後の日差しが、車内の座席を柔らかく照らしていた。カタン、コトンと揺れるリズムに合わせて、美音はバッグの中からスマートフォンを取り出す。
〈次の土曜日、空いてる?〉
先に送られていたメッセージに、小さく笑みがこぼれる。あの春のカフェのあと、ふたりのやり取りは少しずつ戻ってきていた。いや、戻るというより、新しく始まっていたのかもしれない。
――“これから”を、もう一度一緒に重ねていこう。
返事を打とうとしたそのとき、電車が停車し、美音は顔を上げた。見慣れた地元の駅の名前が目に入る。画面を閉じ、胸の前でスマホをそっと握ると、少しだけ深呼吸をして立ち上がった。
*
土曜日の午後、待ち合わせ場所は、地元の小さな商店街の一角にある古い書店だった。高校時代、放課後に何度か立ち寄ったことのある場所。変わらない木の看板と、少し色あせたポスター。その懐かしさが、胸の奥をくすぐった。
「久しぶり、だね」
声をかけてきたのは、少し遅れて現れた夏樹だった。肩にかけたトートバッグから、参考書の端が覗いている。
「やっぱり勉強の帰り?」
美音が問いかけると、夏樹は苦笑いを浮かべて首をすくめた。
「うん、講習の準備がまだちょっとあって。でも、今日はちゃんと時間あけてきたから」
その言葉に、美音は思わず笑ってしまう。以前なら、“忙しい”のひと言で断られていたかもしれない。でも、今日は違った。ちゃんと「会いたい」と言葉にしてくれた。その変化が、ただ嬉しかった。
「じゃあ、行こっか。あのパン屋さん、まだやってるかな?」
並んで歩き出したふたりの距離は、自然と近くなっていた。
*
小さなベーカリーカフェで、クリームパンとカフェラテを前にして、ふたりはゆっくりと会話を交わす。
「ねえ、覚えてる? 高2のとき、模試の帰りにここ寄って、すごくまずいパン選んじゃった話」
「覚えてる覚えてる。あれ、なんでカレーパンにチョコが入ってたんだっけ」
「組み合わせ最悪だったよね……」
くだらない思い出なのに、話しているだけで楽しくなる。それはきっと、その記憶の中に“一緒にいた”という時間が刻まれているからだ。
「……なんか、こういうのがいいなって思う」
ふと、美音がつぶやく。
「こういうの?」
「うん、何気ない時間。でも、それが重なることで、ちゃんと“特別”になっていく感じ」
夏樹はしばらく考えてから、静かに頷いた。
「俺も、そう思う。ドラマみたいなことは、たぶんこれからもそんなにない。でも、今日みたいな時間を、ちゃんと大切にしていきたいなって」
少し照れたような言い方だったけれど、その言葉に美音の胸は静かに温かくなった。
*
店を出たあとは、川沿いの道を歩いた。春の花がまだ少し残る小道には、家族連れや犬の散歩をする人たちの姿があった。
沈黙が続いても、不思議と気にならなかった。隣にいる人の呼吸や足音が、まるで音楽のように心を満たしてくれた。
「ねえ、夏樹」
「ん?」
「来月、またここで会えるかな?」
ふと、美音がそう言うと、夏樹は立ち止まり、美音の方へ身体を向けた。
「ううん、会おう。毎月でも、毎週でも」
「毎日だったら?」
「そしたら俺、地元に引っ越すよ」
ふざけたようでいて、でも目は真剣だった。思わず吹き出した美音が、「バカ」と言って肩を軽く叩く。
「でも……ありがとう。そう言ってくれて」
春の風が、ふたりの髪を優しく揺らした。もう迷わない。もう遠慮しない。そう思える何かが、確かにここにある気がした。
*
駅前まで戻ると、夕方の光が街全体をオレンジ色に染めていた。別れ際、信号を待つ間、夏樹がふいに言った。
「次、会うときはさ……もう少し、ちゃんと未来の話しようか」
「未来の話?」
「うん、たとえば――来年の春のこととか」
美音はその言葉に、小さく目を見開き、そして微笑んだ。
「……うん。楽しみにしてる」
青に変わった信号の先、駅の改札へと向かうふたりの背中に、柔らかな春の風がそっと吹いた。
その足取りは、まだ少し不安定で、たどたどしいかもしれない。
けれど、それでもふたりは前へと歩いていく。
同じ方向を見つめながら。これからを、共に重ねていくために。




