名前を呼ぶように
ホームの端に立つと、遠くから電車の音が聞こえた。春の夕暮れはまだ肌寒く、吐いた息がかすかに白く染まる。美音はコートのポケットに手を入れ、そっと隣を見た。
夏樹が、静かに微笑んでいた。
カフェで言葉を交わしてから、二人は駅までの道をゆっくりと歩いた。何かを確かめるように、同じ歩幅で、時折すれ違う視線を言葉にしながら。たわいもない話も、ぎこちない笑いも、どれも愛おしかった。
「電車、もうすぐ来るね」
美音が言うと、夏樹は頷いた。
「うん。でも……もう少しだけ、ここにいてもいい?」
「……うん」
線路の向こうには、橙色に染まった空が広がっていた。遠くで聞こえる電車の音が、少しずつ近づいてくる。
「美音」
名前を呼ばれて、美音はそっと顔を上げた。
その響きに、鼓動が跳ねる。彼に、ちゃんと名前を呼ばれたことが、なぜだか胸の奥を温かくした。
「俺、たぶんまだ全部は上手く言えないけど……美音といると、自分の弱さも、大切に思えるんだ。迷ったり、不安になったり、格好悪いところも。でも、それでも一緒にいたいって思える」
その言葉に、美音は黙って頷いた。
「わたしも、たぶんまだ不安になると思う。でもね、夏樹とちゃんと向き合いたいって思った。あの日、手が届かなかった言葉たちを、これから少しずつ、交わしていきたいの」
春風が吹き抜ける。二人の髪を揺らし、時間の隙間を優しく包むように。
電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。
「次は、ちゃんと伝えるよ。言葉にして、何度でも」
夏樹が小さく言った。
「ありがとう」ではなく、「好き」でもなく、けれど、それらすべてを内包したような、あたたかな声だった。
美音は、口元に笑みを浮かべると、まっすぐ彼の目を見て、答えた。
「うん。待ってる。わたしも、伝えるから」
電車がゆっくりとホームに滑り込む。扉が開き、車内から冷たい空気が流れ出す。けれど、二人の間に流れる空気は、どこまでも柔らかだった。
乗り込む前、美音は一歩、夏樹に近づいた。
「じゃあ、またね」
「また。すぐに」
扉が閉まり、車内から見たホームには、まだ夏樹の姿が残っていた。美音はガラス越しに手を振り、小さく、けれど確かに笑った。
電車が動き出す。景色がゆっくりと流れていく中、美音はふと思った。
この春は、ただの季節の移り変わりではなく、ひとつの節目だったのだと。
名前を呼び合うように、少しずつ、すこしずつ、ふたりの時間が重なっていく——
それが、恋のはじまりだった。




