大切をほぐす
カフェのガラス窓に映る自分の姿を、美音はふと見つめた。柔らかな春の光がカーテン越しに差し込み、店内には心地よいジャズの旋律が流れている。あの日、再会したあのカフェと同じ席。なのに、今日はまったく違う時間が流れているように思えた。
席の向かい側には、少しだけ髪を短くした夏樹が座っていた。お互いに、ほんの少しの沈黙が続いていたが、その沈黙は重たくはなかった。むしろ、その静けさに意味があると、美音は感じていた。
「来てくれて、ありがとう」
先に口を開いたのは夏樹だった。声の調子はいつもより少しだけ硬く、それでも誠実だった。
「わたしのほうこそ。誘ってくれて、うれしかった」
美音は小さく笑った。心臓の鼓動はまだ落ち着かないままだったが、その不安の裏に、確かな期待があった。
テーブルの上には、注文した紅茶とコーヒーが湯気を立てている。それぞれのカップを手に取りながら、どこかぎこちないままに会話が始まった。
「講習、忙しそうだね」
「うん。春季講習って意外と準備が多くてさ。気づけば、日が暮れてることばっかりだった」
その返事に、美音は少しだけ目を伏せた。彼の多忙さは知っていた。それでも、自分の中にわだかまっていた感情は、簡単には消えてくれない。
「……あのとき、ちょっと言い過ぎたかもって、思ってた」
夏樹がふと視線を外しながら、ぽつりと呟いた。
「あのとき?」
「公園で、最後に会った日」
美音の心に、あの日の冷たい風が蘇る。沈黙、すれ違い、そして、言葉にならなかった想い。
「大切だよ」と言われたことが、嬉しかった半面、それだけでは足りなかった。
「わたしも、あの日からずっと考えてた」
美音はカップを置き、テーブルの上で指を組んだ。
「夏樹のこと、ちゃんと信じたくて。でも、やっぱり少しだけ怖かったの。気持ちを伝えるのも、聞くのも」
夏樹がゆっくりと頷いた。
「俺もそうだった。気持ちはあったのに、うまく言えなくて。『大切だ』って言葉で、すべてを伝えたつもりになってた。でも、美音の気持ちに、ちゃんと向き合ってなかったかもしれない」
言葉のひとつひとつが、心に沁みていく。これまでの沈黙の理由が、今少しずつほどかれていくようだった。
「……夏樹は、わたしのこと、どう思ってる?」
美音の問いは、まっすぐだった。以前よりも強く、けれどどこか頼るような色を含んでいた。
夏樹は、一呼吸おいてから、美音の目を見つめた。
「好きだよ」
その言葉は、とても静かで、けれど確かだった。張り詰めていた空気が、一瞬でほどけていく。
「……ありがとう」
美音の目が潤んだ。あの日、聞きたかった言葉が、ようやく届いた。それだけで、胸の奥が温かくなった。
「美音のこと、ずっと考えてた。忙しさに流されて、本当に大切なものが何か、見失いそうになってた。でも、気づいた。俺にとっての“特別”は、ずっと美音だったんだって」
今度は、美音が笑った。涙が頬をつたっても、手で拭うことなく、そのまま受け止めた。
「わたしも……好きだよ、夏樹」
そう言って微笑む美音の姿に、夏樹は何よりも深い安堵を覚えた。
カップの中の紅茶はもう冷めていたけれど、テーブルを挟んで流れる時間は、確かに春のぬくもりを帯びていた。
ほんの少しのすれ違い。けれど、それを越えた先に、言葉と想いが重なる瞬間がある。
「好きだ」と伝えることの難しさと、それでも伝えたいという想い。そのすべてが、ようやく今、形になったのだった。
カフェを出る頃には、陽は少し傾き始めていた。並んで歩く二人の影が、春の道に静かに寄り添っていた。




