好きといえない
返ってこない返信を、何度も確認してしまう癖がついた。
既読はついている。けれど、そこから先の言葉が来ない。
その沈黙の意味を、夏樹は何度も考えた。返す言葉が見つからないのか。そもそも、もう返すべき言葉がないと思われてしまったのか。ひとつ、またひとつと可能性を挙げては、ため息と共に打ち消していく。
春季講習の準備が本格化し、日々のスケジュールは息もつかせぬほどに詰まっていた。それでも、手を動かしながら頭の片隅で考えてしまうのは、やはり彼女のことだった。
あの日、美音の瞳に浮かんでいたもの。
不安、怒り、寂しさ。どれも正しくて、けれどすべてではなかった気がしていた。
あの時、もう少しちゃんと向き合えていたら。
そう思うたび、胸の奥が痛んだ。手の届く距離にいたはずの想いが、少しずつ、確かに遠ざかっていくのを感じていた。
何かを言葉にするには、あまりに遅く、そして早すぎた。
*
一方、美音もまた、変わらぬ日常の中に取り残されていた。
カフェの扉を開けると、まだ冬の名残を感じる冷たい風が、ベルの音と共に入り込んできた。カウンターに立ちながら、空いたマグカップを洗うその手に、力がこもる。
返信はなかった。けれど、美音は催促することも、再び問いかけることもしなかった。
あの日の言葉が、自分の中でくすぶっているのを感じていた。夏樹の「大切だよ」という言葉。それは嘘ではなかったと信じている。でも、そう信じることで、自分をごまかしているのかもしれないという不安もあった。
今、彼が何を思っているのか、自分はどうしたいのか。
わからないまま、時間だけが過ぎていく。
「……また、考えごと?」
菜緒の声が後ろからかけられる。彼女の変わらぬテンポが、今はどこか心地よかった。
「うん、ちょっとね」
「返事、まだ?」
その言葉に、美音は小さくうなずいた。
「しばらくしてから、来るかもしれないし、来ないかもしれない。でも……待つのって、結構疲れるんだね」
「そうだね。でも、美音はちゃんと伝えたでしょ?それだけで、少しは変われたんじゃない?」
菜緒の声には、責める響きはなかった。ただ、静かに寄り添うように言葉が落ちてくる。
「……変わりたい、って思ってたけど。あの時、ちょっと怖かった。夏樹が、わたしと違うところにいる気がして」
「うん、それはあるかもね。でもさ、離れてる時間って、ちゃんと考える時間にもなるんだよ」
そう言って、菜緒はウィンクをひとつして、カウンターの奥へと戻っていった。
*
講習後の帰り道、夏樹は塾の裏手にある小さな公園に足を運んだ。
昼間の喧騒が嘘のように、辺りは静かで、遠く街灯がぼんやりと地面を照らしていた。
ベンチに腰を下ろし、スマートフォンを取り出す。LINEの画面には、美音とのやりとりが表示されたまま。最後に送られてきたメッセージの時間は、もう一週間以上も前だった。
ふと、彼女の表情が脳裏に浮かぶ。ベンチに座っていたときの、不安げなまなざし。言葉を選ぶように、慎重に紡いでいた彼女の声。
美音は、ちゃんと伝えようとしてくれていた。
それに対して、自分は、どれだけの想いを返せていただろう。
心の中では、ちゃんと「好きだ」と思っていた。けれど、その気持ちを言葉にして伝えることができなかった。
「大切だよ」——それは本当のことだった。でも、その先の一歩を踏み出す勇気が、今の自分には足りなかった。
ふいに、夜風が吹き抜ける。
その風の中に、遠く離れた美音の姿を感じた。
*
そして、美音もまた、布団の中でスマートフォンを手にしていた。画面は暗いまま、指だけがかすかに動く。
メッセージを書いては消し、書いては消す。
たった一言、「どうしてる?」と聞けばいい。それだけのことが、今はできなかった。
言葉が、まだ彼の心に届く場所にあるのか。それを確かめるのが、ただ怖かった。
でも、どこかで信じている自分もいた。
彼がちゃんと、自分の気持ちを考えてくれていること。あの日の言葉が、嘘ではないこと。
今はまだ、余白の中にいる。
けれど、その余白は、いつかまたふたりを繋ぐ糸になるかもしれない。
*
動きのない日々の中で、互いに言葉を失ったまま、それでも心は同じ場所を向いている。
静かな夜が、その距離を包むように、ただそっと流れていった。




