表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/28

もうすぐなのに

 暦の上では春に近づいているとはいえ、風はまだ冷たく、駅までの道を歩くたび、頬に触れる空気が冬の名残を主張していた。


 1月の終わり。大学受験を目前に控えた受験生たちにとって、春はまだ遠い。夏樹もまた、塾講師としてその最後の追い込みに付き合っていた。講習は連日続き、平日も週末も変わらず教室の明かりは夜遅くまで灯っている。


 そんな慌ただしい日々の中、夏樹の地元への帰省は先延ばしになった。美音との再会を約束していた春休み。しかし、カレンダーに書き込んだその日付は、ただの目印のように、彼の目の前からぼやけていく。


「夏樹くん、今日って私の代わりにBクラス入ってくれる? 体調悪そうな子がいてさ」


「……あ、うん。大丈夫。俺の担当終わってからなら」


 ふいに声をかけてきたのは、花咲かなだった。肩までの髪をまとめ上げ、いつも通りの明るい笑顔を浮かべていた。


 この塾での勤務が始まって、すでに一ヶ月以上が経っていた。最初は何となく距離があったかなとの関係も、シフトが重なり、雑談や相談を交わすうちに、自然と“隣にいる存在”へと変わっていった。


「ありがとう。ほんと助かる!」


 夏樹は頷き、彼女の背中が教室に消えていくのを見送った。


 その背中に、ほんの少しだけ安心感を覚えてしまっている自分に、夏樹は気づいていた。それが恋とは違うと、明確に言える自信はない。ただ、かなの存在が日常に溶け込んでしまったことは確かだった。



 日曜の夜、講習が終わった後。塾の同僚たちと一緒に遅めの食事を取ることになった。繁忙期特有の疲れと開放感からか、教室内では見られないような笑顔が飛び交う。


 夏樹のSNSには、そのときの写真が一枚アップされた。長テーブルにずらりと並ぶ講師たちの顔。その端に写る夏樹の隣で、かながピースサインをして笑っていた。


 それが、美音のもとへ届いたのは、深夜。画面の中のかなの笑顔は、決して悪意のあるものではなかった。ただ、無邪気で、楽しげで、その場に「美音」がいないという事実を突きつけてくるだけだった。


「……楽しそうだな」


 そうつぶやいた美音は、スマホを伏せた。


 カフェのバイトが終わったばかりの夜だった。冬の夜風がまだ強く吹く中、帰宅途中の電車の中。あの笑顔に嫉妬した自分を、少しだけ情けないと思いながら、画面を閉じた。


 それでも、心の奥に沈んだものは拭えなかった。



 一方の夏樹は、講習の最終週を終え、少しだけ肩の力が抜けていた。


 気づけば二月も目前。春季講習の準備が始まるまでの、わずかな間。ようやく、美音と会えるという安堵感が、胸の内に広がる。


(ようやく、地元に帰れる)


 美音と電話をした日から、随分と時間が経った気がする。メッセージのやり取りも、少しずつ減っていた。でも、彼女が特別であることに変わりはない。あのとき、「特別」と言葉を交わしたことも、二人の距離を変えた。


 変えたはず、だった。


 けれど、忙しさの中でその温度が、ほんのわずかに、鈍くなっているのを夏樹自身も感じていた。


 それは、罪悪感にも似ていた。


「そろそろ、美音に連絡しないとな……」


 誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいた帰り道。


 思い浮かべたのは、冬のカフェで頬を赤らめていた彼女の姿。そして、あの日見上げたクリスマスツリーの光だった。



 時間は人を変えるのではない。ただ、その人の中にあったものの「かたち」を、少しずつ変えていくだけなのかもしれない。


 美音も、夏樹も。相手を想う気持ちは確かにそこにある。ただ、それが交差するタイミングをほんの少し誤るだけで、距離はまた、伸びたり縮んだりを繰り返す。


 春はすぐそこまで来ている。けれど、その足音が聞こえるのは、まだどちらか片方だけなのかもしれない。


 そして――


 ほんのささやかな“日常”の中に、気づかぬまま、次の変化の芽が潜んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ