もうすぐなのに
暦の上では春に近づいているとはいえ、風はまだ冷たく、駅までの道を歩くたび、頬に触れる空気が冬の名残を主張していた。
1月の終わり。大学受験を目前に控えた受験生たちにとって、春はまだ遠い。夏樹もまた、塾講師としてその最後の追い込みに付き合っていた。講習は連日続き、平日も週末も変わらず教室の明かりは夜遅くまで灯っている。
そんな慌ただしい日々の中、夏樹の地元への帰省は先延ばしになった。美音との再会を約束していた春休み。しかし、カレンダーに書き込んだその日付は、ただの目印のように、彼の目の前からぼやけていく。
「夏樹くん、今日って私の代わりにBクラス入ってくれる? 体調悪そうな子がいてさ」
「……あ、うん。大丈夫。俺の担当終わってからなら」
ふいに声をかけてきたのは、花咲かなだった。肩までの髪をまとめ上げ、いつも通りの明るい笑顔を浮かべていた。
この塾での勤務が始まって、すでに一ヶ月以上が経っていた。最初は何となく距離があったかなとの関係も、シフトが重なり、雑談や相談を交わすうちに、自然と“隣にいる存在”へと変わっていった。
「ありがとう。ほんと助かる!」
夏樹は頷き、彼女の背中が教室に消えていくのを見送った。
その背中に、ほんの少しだけ安心感を覚えてしまっている自分に、夏樹は気づいていた。それが恋とは違うと、明確に言える自信はない。ただ、かなの存在が日常に溶け込んでしまったことは確かだった。
*
日曜の夜、講習が終わった後。塾の同僚たちと一緒に遅めの食事を取ることになった。繁忙期特有の疲れと開放感からか、教室内では見られないような笑顔が飛び交う。
夏樹のSNSには、そのときの写真が一枚アップされた。長テーブルにずらりと並ぶ講師たちの顔。その端に写る夏樹の隣で、かながピースサインをして笑っていた。
それが、美音のもとへ届いたのは、深夜。画面の中のかなの笑顔は、決して悪意のあるものではなかった。ただ、無邪気で、楽しげで、その場に「美音」がいないという事実を突きつけてくるだけだった。
「……楽しそうだな」
そうつぶやいた美音は、スマホを伏せた。
カフェのバイトが終わったばかりの夜だった。冬の夜風がまだ強く吹く中、帰宅途中の電車の中。あの笑顔に嫉妬した自分を、少しだけ情けないと思いながら、画面を閉じた。
それでも、心の奥に沈んだものは拭えなかった。
*
一方の夏樹は、講習の最終週を終え、少しだけ肩の力が抜けていた。
気づけば二月も目前。春季講習の準備が始まるまでの、わずかな間。ようやく、美音と会えるという安堵感が、胸の内に広がる。
(ようやく、地元に帰れる)
美音と電話をした日から、随分と時間が経った気がする。メッセージのやり取りも、少しずつ減っていた。でも、彼女が特別であることに変わりはない。あのとき、「特別」と言葉を交わしたことも、二人の距離を変えた。
変えたはず、だった。
けれど、忙しさの中でその温度が、ほんのわずかに、鈍くなっているのを夏樹自身も感じていた。
それは、罪悪感にも似ていた。
「そろそろ、美音に連絡しないとな……」
誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいた帰り道。
思い浮かべたのは、冬のカフェで頬を赤らめていた彼女の姿。そして、あの日見上げたクリスマスツリーの光だった。
*
時間は人を変えるのではない。ただ、その人の中にあったものの「かたち」を、少しずつ変えていくだけなのかもしれない。
美音も、夏樹も。相手を想う気持ちは確かにそこにある。ただ、それが交差するタイミングをほんの少し誤るだけで、距離はまた、伸びたり縮んだりを繰り返す。
春はすぐそこまで来ている。けれど、その足音が聞こえるのは、まだどちらか片方だけなのかもしれない。
そして――
ほんのささやかな“日常”の中に、気づかぬまま、次の変化の芽が潜んでいた。




