忙しさのなかに
冬休みが終わった初日、冬の朝はやけに白んでいて、吐く息すらもどこか慌ただしく見えた。
夏樹は午前の講義を終えると、コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、駅前のバスに揺られて塾へと向かっていた。冬季講習の真っ只中、午後からは中学生の授業が詰まっており、週末も模試の対応などでびっしりとスケジュールが埋まっている。
大学に戻ったことで、美音ともまた少し距離ができた。LINEのやり取りは続いていたし、電話も時々していた。けれど、冬休みのような”共有された時間”はなく、現実の忙しさの中に、ふたりの関係もまた紛れ込んでしまいそうな気がしていた。
(何か、大切なものがこぼれ落ちていくみたいだ)
そんな風に思う自分が、少しだけ怖かった。
塾の入口をくぐると、すでに教室には講師や生徒の声が響いていた。ホワイトボードに書かれた予定表には、夏樹の名前がびっしりと並んでいる。
「夏樹くん、今日もフル出勤だねー」
明るい声に顔を向けると、そこには花咲かながいた。ポニーテールに揺れるヘアゴムが印象的な彼女は、どんな相手にも自然に笑顔を向けるタイプの人間だった。
「うん。今日も2コマ続けて中三の英語と数学……」
「えらいえらい。私、夏樹くんにシフト変わってもらったから助かっちゃった。ありがとうね」
「ああ、別にいいよ。俺も空いてたし」
「そう言うと思った! でも今度、ご飯でもおごらせてよ。せっかく同じ大学なんだし、少しくらい仲良くしなきゃね?」
そう言ってウインクまで飛ばしてくる彼女の軽やかさに、夏樹は少し笑ってしまう。どこまでもフラットな彼女の言動は、人を安心させる。
「じゃあ、今日のあと空いてたら行く?」
「行く行く!」
その会話は、どこまでも何気ないものだった。
*
授業後の教室は静まり返っていた。ホワイトボードを消し終え、コートを羽織った夏樹が休憩室に戻ると、すでにかなが待っていた。
「お疲れー。じゃ、行こっか」
ふたりで駅前のファミレスに入る。まだ時間が早いせいか、店内は空いていた。窓際の席に座り、メニューを開く。
「何でもいいよ。お礼だから!」
「じゃあ、遠慮なく……」
注文を終えると、少しの沈黙が流れた。けれど、それは居心地の悪いものではない。
「ねえ、夏樹くんって、彼女いるの?」
唐突な質問だったが、声色はどこまでも軽やかだった。
「……いないよ」
「そっか。でもなんか、そういう人いそうな雰囲気あるよ。こう、誰かを大事にしてそうっていうか」
冗談のような本気のような言葉に、夏樹は少しだけ口元を緩めた。
「……大事にしたい人は、いるかな」
「おお、なるほど。それはもう……半分いるみたいなものじゃん」
「そうかもな」
そう返しながら、ふと思い浮かんだのは美音の顔だった。冬休みのあの日、クリスマスツリーの前で見上げた彼女の瞳。あの夜の、微かなすれ違いさえも、今は大切な記憶の一部になっている。
彼女の言った「特別」という言葉を、夏樹は今も胸の奥で反芻していた。
「その人、どんな子?」
かなの質問に、夏樹は少しだけ考えたあと、ぽつりと答えた。
「……高校の頃、あんまり話さなかった子。けど、卒業してから偶然会って、それから少しずつ話すようになって。……気づいたら、その子とのやり取りが日常になってた」
「そっか。いいね、そういうの。なんか、丁寧に作られていく関係って、私、ちょっと憧れる」
かなはそう言って、コップの水を一口飲んだ。
「でもさ、それって時々、不安になったりしない?」
「……不安?」
「うん。ほら、何かの拍子にすれ違ったり、連絡が減ったりしたら、それだけで崩れていきそうな……。そういう、細い糸みたいな感じ」
彼女の言葉に、夏樹の心のどこかが静かに揺れた。まさに、今、自分が感じていたことだった。
「……あるかもな。毎日忙しくなって、それだけで何も変わってないのに、何かが離れていってる気がする時がある」
「ふふっ、やっぱり夏樹くん、真面目だなあ。でも、そういう人なら大丈夫だと思うよ。大事にしてる気持ちは、きっと伝わるから」
それはどこまでもやわらかく、けれど確かに芯のある言葉だった。
*
帰り道、冷たい風が頬を撫でる。駅のホームに並んで立ちながら、夏樹はふとスマートフォンを取り出した。まだ返せていなかった、美音からの「今日、寒かったね」というメッセージが届いている。
(きっと、向こうも忙しいのかもしれない)
そう思いながら、夏樹は短く返信を打つ。
《こっちも寒かったよ。今週末、電話できたら嬉しい》
指を止めることなく送信すると、胸の奥にわずかにあたたかさが灯る。
冬の夜は、まだ長い。
けれどその静けさの中で、ふたりの関係はまた少しずつ、次の季節へと歩みを進めていた。




