距離の余白
神社を後にした帰り道、吐く息は白く、境内の喧騒が遠ざかるほどに静けさが身に染みていく。
「……けっこう混んでたね」
夏樹がふと口を開くと、美音は少し遅れて「うん」と頷いた。元日の午後、すでに陽は傾きかけているが、人の波は途切れなかった。
さっきまでは手水舎で冷たい水に手を浸し、並んでお賽銭を投げ、笑いながらおみくじを開いた。そんな時間が、急に遠く感じられる。
「でも楽しかったね」
「うん、すごく」
そう言い合いながらも、会話はそれ以上ふくらまない。笑顔を向けるにはまだ照れくささが残り、視線が交わるたびにすぐに逸らしてしまう。
気がつけば、初詣という目的を終えたことで、二人のあいだにはまた言葉にならない空白が戻っていた。
*
駅までの道を歩きながら、美音は手袋越しに指をぎゅっと握った。手を繋ぎたいと思ったわけじゃない。ただ、胸の奥のざらついた感情に形を与えるようにして。
あの恋みくじの結果に、ふたりして照れて笑った。
「近づきすぎれば曇る関係」と書かれていた文字が、今になって胸に残っている。
(近づいたはずなのに、どうしてまたこんなに距離を感じるんだろう)
言葉を探すように、空を仰いだ。雲の切れ間に淡い青がのぞいている。冷たい風が髪をなびかせるたび、何かが遠ざかるような心地がした。
「美音さ」
不意に名前を呼ばれ、美音はびくりとした。
夏樹は真っ直ぐ前を見たままだったが、彼の声には、どこかためらいがあった。
「ん……なに?」
「いや……さっき、もうちょっと一緒にいたいって思ったけど、でも……変に期待させてもな、って思って、なんか言えなかった」
「……期待、って?」
「……たぶん俺、自分の気持ちを伝えたら、次はちゃんと何か返ってくると思ってた。けど、そういうのって、ちょっと違うんだなって」
美音は答えなかった。けれど、胸の奥で何かがすっと解けるのを感じた。
言葉は交わされていても、気持ちまでは届いていなかった——その事実が、今ようやく共有された気がした。
「私も……」
言いかけて、唇を噛む。
伝えたいことは山ほどあるのに、ひとつも整理がついていない。
(今日は楽しかった。それでいいって思ってた。でも、たぶんそれだけじゃ足りない)
その先を、どう言えばいいのかがわからない。
*
駅前のロータリーに差しかかると、大きなツリーが見えてきた。
赤と金のオーナメントに光が灯り、夜の始まりを告げるように広場を彩っていた。
「このツリー、今日のはまた違って見えるな」
ぽつりと美音が言う。
その横顔を、夏樹は静かに見つめた。
「うん。俺も、そう思う」
変わったのは、きっとツリーじゃない。
目の前の景色が少し違って見えるのは、隣にいる誰かが“特別”になったから。
けれど——
「……またね」
改札前で美音が小さく手を振ったとき、夏樹はなぜかその言葉に「また会える?」という問いが含まれている気がして、慌てて応えた。
「うん、また。……また連絡する」
たぶん今のふたりには、それが精一杯だった。
*
夜、美音はベッドの上でスマホを手にしていた。画面には、さっき交わした「お疲れさま」「今日はありがとう」という短いやりとりが並んでいる。
もっと話したかった。でも、何をどう言えばいいのかわからなかった。
彼の沈黙が、自分の想いを拒んでいるわけではないとわかっていても、やっぱり少し怖かった。
(特別って、なんだろう)
あの日、彼がくれた言葉と、自分が返した想い。それだけで何かが変わったはずなのに、今はまだそれをどう扱えばいいのか、戸惑っている。
だからこそ、美音は指を動かした。
《また、電話してもいい?》
それは確信ではなく、願いに近い問いだった。
けれど、返ってきた一文には迷いがなかった。
《もちろん》
短く、けれど確かに。
余白を残しながらも、ふたりはまた、歩き出すためのページを開こうとしていた。




