春の教室
春の匂いが、窓の隙間から教室に吹き込んできた。
三月の終わり。受験が終わり、卒業式も終え、制服のネクタイを緩めたまま教室に残っている生徒はまばらだった。
佐々木夏樹は、最後の荷物整理をするふりをしながら、何度も黒板の方へ視線を送っていた。黒板には「3年C組 卒業おめでとう」と、担任がチョークで書いた言葉がまだ消されずに残っている。隅に描かれた小さな桜の花びらが、どこか照れくさくて、でも妙に愛おしかった。
「…あれ? まだいたんだ」
不意に聞こえた声に、夏樹は驚いて後ろを振り返った。
教室の入り口に、美音が立っていた。小柄で、整った顔立ち。けれどどこか影を落としたような瞳をしていて、話しかける機会がなかった女子のひとりだった。
「うん。荷物が多くてさ」
「ふーん。……夏樹くんって、いつも静かだったよね」
美音はそう言って、教室の奥に入ってきた。手には小さな封筒を持っていて、誰かに手紙を渡すつもりだったのかもしれない。でも、その誰かはもういないのか、彼女は戸惑ったように机を見つめていた。
「美音さんこそ、こんな時間に」
「私も、忘れ物……ってことにしとく」
苦笑する彼女の表情が、夕焼けの光を受けてやわらかく揺れた。
このとき、夏樹は思った。
――この人のこと、全然知らなかったな。
「来月から、大学だね」
「うん。……東京の大学、受かったんだ」
「すごいじゃん。私は地元の大学。……でも、まあ、それなりに楽しみ」
ふたりの言葉が、ぽつりぽつりと教室に落ちる。
こんな風に話すのは初めてだった。だけど、なぜか会話はぎこちなくなくて、不思議と心地よかった。
美音は一度、黒板の方を見つめ、それから夏樹の方を見た。
「ねえ、また、どこかで会えたら話そっか」
「うん、もちろん」
それだけのやりとりが、春の教室にしずかに響いた。
そして、まるでそれが「始まり」の合図のように、風がカーテンを揺らした