老害不要論
老害と言う言葉は不要である。
「年長者への今の態度は将来の自分への年少者の態度」である。
老害批判は未来の自分に対してへのブーメランを投げているに等しいのだ。
「神童も大人になればただの人。活発な若者も年老いればただの老害」と言われかねない。
老いない人間なんていないのだからな。
未来の自分が老害呼ばわりされない為にも、老害と言う言葉は使うべきではない。
そもそも老害呼ばわりはエイジズムと言う立派な差別なのになぜ、老害呼ばわりが罷り通っているのか。
老害と言う言葉は差別用語であり、ヘイトスピーチである。
老害と言う言葉を使う事がタブー視されるくらいの意識が必要なのである。
そもそも、先人の知恵のお掛けで今の豊かな文明に恵まれているのだ。先人には感謝すべきだ。
下をみれば道路は舗装され上下水道が張り巡らされ、上を見れば電線が張り巡らされ飛行機が飛び交う。文明の力だ。
道路が舗装されている事で自転車でも車椅子でも徒歩でも快適に通行できるし、飛行機や新幹線のおかげで長距離でも短時間で異動できる。それもこれもかこまで文明を発展してくださった先人様のおかけだ。
暑ければエアコンがあり、寒ければストーブがある。パソコンやスマホでどこでも仕事も娯楽もできる。暖かいお風呂にも入れ、暖かい便座にも座れる。録画機能の発達で時間が被っていても見たい番組を複数見ることもできるし、録画してオンデマンド視聴すればCMを飛ばしたり倍速で見たりとタイパ高い有意義な時間活用も可能。スマホ、テレビ、パソコン、ブルーレイ、全自動洗濯機、エアコン、ストーブ、ボイラー、ロボット掃除機、冷蔵庫、ウォシュレット・・・。
誰のお陰で今の生活があると思っているんだ?!
今の快適な生活が遅れる社会は全て先人の努力によってもたらされているものだ。
先人には敬意を払うべきだ。
なぜ、若い頃汗水垂らして働いてきた老人たちを害悪呼ばわりするのか。
老害と言う言葉こそが害悪そのものだ。
お年寄りには親切にしなければならない。
それは若者だけではなく、中年も同じである。
今や若者の数が減りすぎていて、お年寄りに席を譲っても座れない老人が溢れかえっている。
若者が多く老人が少ない昔だったら、席を譲る親切な若者が少数でも老人が席から溢れる事はなかった。
昔の若者に比べて、今の若者が自己中だから、座れない老人が増えているのではない。
昔は自己中な若者が多くても、若者の割合が多く老人の割合が低かったから、問題がなかっただけである。
今や若者が席を譲るだけでは足りないのである。
若者だけではなく、中年も老人に席を譲らなくてはならない時代なのである。
若者だけが頑張れば言い時代は終わったのである。
若者だけではなく、中高年も頑張らなくては国が持たないところまで来ている。
団結すべきなのに、エイジズムで分断を生む老害と言う差別用語を使うことは断じて許してはならない。