社交界での評判最悪の子爵令嬢は、呪われた氷の公爵に嫁ぐことになりました。~わたくしははっきり「あなたを愛してはいません」と申したのですが、溺愛されています~
「アレイアシュ、ひとつ訊きたい。君はわたしを愛しているか?」
「いいえ、愛していません」
ぴしゃりと叩きつけるような返答でしたのに、閣下は気分を害した様子を見せませんでした。
一度、頷いて、組んでいた脚を解き、身を乗り出します。両手でぎこちなく持ったゴブレットには、半分ほどクラレットが注がれていました。
「気にいった。君と結婚しよう」
わたくしは思わず、顔をしかめました。閣下はにっこり笑って、背凭れに体を預け、また、脚を組みます。
わたくしが、なんてことかしら、とこぼすと、彼は小さく声をたてて笑いました。
◇◇◇◇◇
わたくし、アレイアシュ・デ・トッシーニョは、子爵家の長女です。三年前にお父さまが亡くなり、長男である、四歳上のお兄さまが跡を継ぎました。二歳上の、下のお兄さまが、その補佐をしています。
歳は十八で、今年、社交界デビューの予定でした。その為のあたらしいドレスや靴、アクセサリも注文していましたし、介添人も雇い、準備は万端でしたのに……。
発端は……我が家の財政が、思ったよりも逼迫していたことにあります。
わたくしのあたらしいドレスの代金が未払いになっており、仕立屋が直に我が家にまで、取り立てに来ました。
二度、追い返したのですが、あまりにもしつこいので下のお兄さまが帳簿をあらためたところ、複数の貴族に借金があることが発覚しました。仕立屋への支払いも、本当にされていなかったのです。
上のお兄さまは弁明せず、わたくし達は事態をどうにかおさめようと、各方面へ働きかけました。
お兄さまが借金をした理由はわかっています。賭け事です。上のお兄さまは、数年前に伯爵家の三女との婚約が一方的に破棄され、自暴自棄になって、お酒や賭け事に逃げました。一時的なことだったとわたくし達は思っていたのですが、そうではなかったのです。お兄さまはわたくし達に隠れて、お酒も賭け事も続けていたのでしょう。
下のお兄さまとわたくしは親戚に頭を下げ、叔父や従姉妹に罵られながらも幾ばくかのお金を融通してもらうことが決まりました。弟達はお金を貸してくれている貴族へ内密に会って返済までの期限を伸ばしてもらい、妹達も、仕立屋やなにかを宥め、猶予してもらって……。
しかし、幾つかの貴族は、これ以上返済を待てないと連絡してきました。親戚からかりてきたお金をそちらに充てても、どうしても、みっつの家には返せません。どうやりくりしても、お金が足りないのです。
「姉さま。姉さまなら、王女殿下のお話相手に選ばれたこともあるし、どなたも、僕らが会うよりも納得してくれると思うんだ。ボーロさまも居るし」
弱った様子で弟が提案し、下のお兄さまが大きく頷きました。「アレイアシュ、頼む。今度のことは、お前も関わりないとは云えないのだから」
わたくしは下のお兄さまからそう頼まれて、断ることができませんでした。
弟達はまだ幼く、下のお兄さまはなんの功もありません。
子爵である兄当人ではなく、弟達が行ったことで、相手が反対にかたくなになってしまったようだ――と、下のお兄さまから聴きました。
その点、二年前と一年前の秋祭りの際、王女殿下のお話相手に選ばれた十一人の娘にはいっていたわたくしなら、名前も通っています。
ボラシャという伯爵家の跡取り息子、ボーロさまとの婚約もしていました。
ボラシャ家をあてにするつもりは毛頭ありませんでしたが、我が家がお金をかりている貴族が、わたくしの婚約相手のお家のことを考えるのは当然のこと。下のお兄さまは、それを考えていたのです。
約束をする訳ではないけれど、わたくしが行くことで、わたくしもこの一件――借金――に関わっていると、暗に示すことになるのです。
お相手が、いざとなればボラシャ家になんとかしてもらう気なのだろう、と勘違いしてくれれば儲けもの、ということです。
わたくしは下のお兄さまの言葉の意図を理解し、お相手のお家へまず手紙を書きました。日時を指定する返事が来て後、馬車を仕立て、地味なドレスに身を包み、人目を忍んでお相手のお邸へ向かいました。
それが間違いだったのです。
借りている額面の大きさから、まっさきに詫びをいれ、猶予してもらうように頭を下げて頼むべきなのは、侯爵位を持つエンシャルカーダ家です。
エンシャルカーダは王国南部に領地を持ち、領地は養鶏と砂糖の生産で大きな利益を上げています。それで築いた財産を、幾つもの貴族に貸し付けているのだそうです。
当主である侯爵さま当人は、お若い頃には各地で行われるトーナメントに何度も出場し、優勝してきたかたです。武でならし、若い貴公子からの人気も高く、パーティなどでは若武者達に囲まれてお話ししているとか。上のお兄さまも、そういった縁で知り合ったのでしょう。
わたくしはエンシャルカーダ家の指定した日時に、都にあるエンシャルカーダ家のお邸を訪問いたしました。
はじめからなにかおかしかったのです。
わたくしは表からではなく、裏口から這入ったのですが、それはおかしくはありません。わたくしは、借金返済の猶予をもらいに訪れたのですから、堂々と表から這入るのもおかしな話です。
エンシャルカーダ家も、うちへ来たことが表沙汰になったら困るでしょう、と、気遣うような返信を寄越したのですから。
しかし、その後はおかしな成り行きでした。お勝手のようなところから、廊下へ出ると、案内に立った従僕がかしこまって云うのです。
「ここから先は、お嬢さまひとりでお越しください」
「まあ、何故? わたくし……」
わたくしは侍女達を振り向きました。わたくしが物心つく前から世話をしてくれていて、我が家の窮状も知っている、年嵩のふたりです。
わたくしは困惑していましたが、ふたりともやはり困惑げに目をかわしました。このようなことを云われるのははじめてだったからでしょう。
ですが、相手はエンシャルカーダという大きな家の従僕です。流石に、侍女達がなにか申すことはできません。
従僕は木で鼻をこくるような態度でした。
「旦那さまからそのように指示されておりますので」
「でも、ひとりでなんて、参れません」
わたくしが戸惑いながらそう返すと、従僕はこっくり頷きました。
「でしたら、お帰りくださいませ。わたくしも自分の仕事をまっとうせねばなりません。お嬢さまひとりでお越し戴けないのでしたら、ここから先はお通しできません」
「まあ……」
わたくしの侍女が思わず、という感じでつぶやきます。わたくしは焦っていました。必死で、考えをめぐらせていました。
このままでは、エンシャルカーダ家のご当主、カネラ侯爵に会って戴けない。借金返済を猶予してもらえなかったら、お兄さまがサインした書類のとおり、我が家の土地や先祖伝来の宝飾品などが、エンシャルカーダ家に渡ってしまう。
土地も、先祖伝来の宝飾品も、もとはといえば王家から賜ったもの。
それを勝手にエンシャルカーダ家へ渡すことはできませんから、もしそうなれば宮廷へ報告することになり、最悪、我が家は爵位を失う……。
「わかりました」
決心したというのに、声は酷く震えました。「わたくしひとりで参ります」
従僕が満足そうに頷いたことを、はっきりと覚えています。
応接間か、執務室か、そう云った場所へ通されるだろうと思っていたわたくしが実際に案内されたのは、幾つもの階段や廊下を長々と歩いた先にある、寝室でした。
「ちょっと……」
てっきり応接間だと思って足を踏みいれたわたくしが、大きなベッドに驚いて振り返ると、従僕がわたくしの鼻先で扉を閉めました。扉へ手をかけても、開けることができません。
「やあ、セニョーラ・トッシーニョ」
「!」
はっとして、声のほうを見ます。
ぴっちりとしめられた窓の傍に、秋祭りで顔を合わせたことのある、カネラ侯爵が居ました。彼は微笑んでいました。
壁にとりつけられた燭台の上で、ろうそくが燃え、炎がゆらゆらと揺れています。
カネラ侯爵は、わたくしの亡くなったお父さまよりも幾らかお若いくらいの筈ですが、それよりももっと若く、三十代前半に見えました。身なりを整えるのに、随分お金をかけているのでしょう。
侯爵は乗馬用の鞭を持っていました。わたくしは後退って、扉に背をつけます。
「砂色の髪のお嬢さん、こちらへおいで。その可愛いそばかすの数を数えさせてくれないか?」
わたくしは声を出すことができませんでした。
罠にかかった、という言葉が頭をよぎり、涙があふれそうになります。この後の展開はわかりきっていました。あれだけ、お父さまが、めったなことではひとりきりになってはならないと云っていたのに……。
カネラ侯爵は、黙っているわたくしの態度に焦れたようです。大股に近付いてきました。恐怖がふくれあがり、喉の奥から声が迸ります。「来ないで」
「借金についての相談に来たのだろう。君が少々我慢すれば、帳消しにしてやってもいい。そばかすを数えさせてくれるならね」
「来ないで!」
侯爵の顔から笑みが消えました。
わたくしを生意気だと思ったのでしょう。ぶつぶつとそのようなことをこぼし、侯爵は右手に持った鞭を左手に軽く打ち付けながら、更に近付いてきます。「アレイアシュ。情況を考えるんだ」
「それ以上近付いたら、あなたをゆるしません」
「お父上は君を相当甘やかしたようだな。小娘ごときになにができる! さあ、静かにベッドへ行くか、泣きながらベッドへ行くか、どちらかを選びなさい。決められないならわたしが手伝ってやろう!」
侯爵は云い終えると、わたくしめがけて鞭を振りおろしました。
恐怖がわたくしの体を動かしました。わたくしは叫びながら侯爵へぶつかり、夢中でその手へ嚙みつくと、ぽろりとこぼれ落ちた鞭を奪い、振りまわしたのです。
なにかにあたったのはわかりましたが、恐怖で動きを停められませんでした。攻撃をやめたらこちらが攻撃される、侯爵が動かなくなるまでは手を停めてはいけない、このまま……。
「誰か! 誰か!」
カネラ侯爵が助けを呼んでいます。わたくしははっとして、倒れている侯爵から距離をとりました。
わたくしの体を、開いた扉が弾きとばしました。わたくしはその場にうずくまります。鞭がどこかへ転がっていきました。
「旦那さま!」
従僕や侍女など、エンシャルカーダ家の使用人達がなだれこんできます。わたくしには見向きもせず、侯爵を取り囲みました。
這入ってきた使用人には、わたくしの侍女もまざっていました。ふたりはわたくしの傍へしゃがみこみ、怯えの為に震えが停まらないわたくしをだきかかえるようにしてくれました。「お嬢さま、まあ、なんてこと!」
「アレイアシュさま、お怪我は?!」
ほっとしたのも束の間、次の瞬間、侍女達が悲鳴をあげて倒れました。
右目に血がはいり、わたくしは息をのみました。
カネラ侯爵が鞭を拾い上げ、ふたりの顔を打ったのです。侍女達の顔から鮮血がほとばしって、床や壁にまで飛び散っていました。
カネラ侯爵は、顔や手に、みみず腫れを幾つもつくっていました。憎々しげにわたくしを睨んでいます。
借金返済、猶予、という言葉が頭のなかで踊っていました。それはどうあってもかなわないことだろうし、借金以上になにか悪いことが起ころうとしているのははっきりしていました。
女ひとりに鞭で殴られ、助けを求めた――。
そんな醜聞は、決して、表に出せることではありません。普通の貴族でもそうですが、カネラ侯爵はお若い頃にはトーナメントで何度も優勝し、決闘ではおおむね勝ってきたという逸話の持ち主です。なおのこと、女相手に負けたなど、知られる訳には参りません。
借金返済を期日どおりにするようにとわたくしにいいわたし、カネラ侯爵は、わたくし達をエンシャルカーダ邸から追い出しました。
それだけでも――借金を期日どおりに返せと宣告するだけでも、トッシーニョ家には相当な打撃です。エンシャルカーダ家へお金を返す為には、ほかの十以上の家に返済を猶予してもらわないといけません。それらの家から不満が噴き出し、宮廷へ訴えられたら、爵位はすぐにとりあげられるでしょう。
どうやって猶予を願うかの算段を、侍女の顔の手当てをしながらわたくしが模索している間、カネラ侯爵は卑劣な手をつかってわたくしの評判を落とそうとしていました。
そして、それは成功しました。
まだ恐怖に震えながら、下のお兄さまや弟達にどう説明しようかとなやみ、領地へ戻ると、下のお兄さまがまっさおな顔でわたくしを迎えました。「アレイアシュ、ボラシャ家から、婚約を破棄すると……」
泣いていたので、細かなところは思い出せません。お兄さまはボラシャ家からの手紙を持っていて、使者が来て丁寧に説明したとも云っていました。
カネラ侯爵は卑劣な男でした。
わたくしがカネラ侯爵に色目をつかい、カネラ侯爵がそれになびかず断ったので、わたくしの従僕が数人がかりでカネラ侯爵を襲った、と……そんなことを、ご友人がたに吹聴したのです。
カネラ侯爵のご友人がたは、まさか武でならした勇者であるカネラ侯爵が、嘘を吐くなどとは思わないのでしょう。噂はあっという間にひろまりました。そして、ボラシャ家にまで届いたのです。
◇◇◇◇◇
最低だったのは、叔父一家です。
彼らは一年の多くの時間、都に居て、例の一件が起こった時にも都に滞在していたのですが、わたくしを庇うどころかカネラ侯爵の言葉を裏付けるようなことを云ってまわったのです。わたくしがボーロさま以外の殿方と一緒に芝居を見に行っただの、わたくしが盛り場に出入りしているだのと。
その上、お兄さまのつくった借金を返す為に、頭を下げてお金をかりたのも、わたくしが賭け事をして失ったお金の補填の為だということにされてしまいました。わたくしが借金をつくったことになってしまったのです。
下のお兄さまは、その話を強く否定できませんでした。そして、その噂はどんどん大きくなっていきました。
長女のアレイアシュが賭け事にお金をつぎ込み、その為にトッシーニョ家は幾つもの家から借金をした。その上アレイアシュは、てっとりばやく借金をちゃらにする為に、カネラ侯爵と「既成事実」をつくろうとして失敗し、恨みに思って従僕隊に仕返しをさせた……。
わたくしの評判は地に落ち、婚約は破棄。ボーロさまはいつの間にか、わたくしの従姉妹と婚約していました。
それで、叔父一家の企みはわかりました。わたくしを追い落として、従姉妹がボーロさまの婚約者になる為に、カネラ侯爵と手を組んだのでしょう。
ボラシャ家は、相手がトッシーニョ家であれば、わたくしだろうと従姉妹だろうとどちらでもいいのです。叔父は、ボラシャ家という強力な味方が居れば、トッシーニョの当主の座を狙えます。
そしてそれは、現実味のある計画でした。トッシーニョ本家は借金で火の車。上のお兄さまはなにもできず、下のお兄さまもまともに動けず、弟や妹達は小さすぎ、わたくしは社交界のつまはじきもの。
わたくしが、財をなした商人へ嫁いで、お金を工面してもらう、という手段も考えました。しかし、「賭け事で身を持ち崩した」という噂のたっているわたくしをもらってくれる商人は居ません。
このままでは、叔父一家にトッシーニョ本家をのっとられてしまう。
ほかに打つ手がなく、わたくしは下のお兄さまにも秘密で、都へ向かいました。老齢の御者とふたりでです。
侍女達は、わたくしをひとりにし、重大な破局を招いた責任をとると、暇乞いをして居なくなっていました。
「大変なことになっているわね、アレイアシュ」
わたくしは項垂れたまま、王女殿下のお言葉を聴いていました。
王女殿下は、秋祭りでお話相手になったわたくしに、時候の手紙や贈りものをくださり、目をかけてくださっていました。宮廷の門番に、殿下から戴いた指環を見せれば、内密に会って戴ける。そういう関係なのです。
そのかたの、特別に親しく、優しくしてくださったかたの耳に、くだらない誹謗中傷をいれてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
殿下はわたくしと親しくしていたことで、おそらく宮廷では肩身のせまい思いをしているでしょう。王女殿下といえど、お力は万全ではありません。ご兄弟と争っているという話もございます。
お顔を見ることができず、殿下の居間で、わたくしは泣いていました。殿下は侍女にハンカチを持ってこさせ、わたくしの手に握らせます。わたくしは泣きながら礼を云い、顔を拭いました。
「それで、どうしたの?」
「殿下……図々しいことは承知です。ですが、お力添え戴きたいのです」
情けなさに、尚更涙が出てきます。殿下は優しい声でおっしゃいました。
「少しなら、わたくしのお金を出せます。泣かないで、アレイアシュ」
「いいえ、そうではないのです」
わたくしは顔を上げ、唾をのみました。
殿下がこと、ここにいたっても、わたくしを信じてくれているのが嬉しく、お気遣いが身にしみました。しかし、わたくしは、無理なお願いをしなくてはなりません。「お願いがございます、殿下。氷の公爵……フィオス公爵閣下と、わたくしの仲を、とりもって戴けませんでしょうか? 閣下は、結婚相手を求めていると聴いています。丁度、閣下は都へお越しだとか。わたくし、閣下に嫁ぎたいのです」
愛だの恋だの、そのような清らかなお話ではございません。殿下も、それをご存じでしょう。なにも心配しなくていいのよ、とわたくしを慰めてくださいましたが、閣下との面談の約束は、すぐにとりつけてくださいました。やめておきなさいと停められることはなかったのです。
フィオス公爵、ランプライア・デ・オヴォシュ。王国北西部の国境、要衝に領地を持つ、若き公爵閣下です。数年前に、先代の公爵閣下から爵位を受け継がれました。
フィオス公爵のご先祖さまは、隣国からの侵攻を防いだ英雄です。
今では、隣国との外交は落ち着いていますが、いつまた戦争になるかわかりません。その為、国境の要衝に領地を持つフィオス公爵の家系は王家との関係が深く、幾度も王家から降嫁がありました。
その領地の半分以上が、あたたかい王国にはめずらしく、冬場には雪に閉ざされ、川や滝まで凍り付いてしまいます。温泉が湧く地域が多く、その熱を利用してヤツメウナギを養殖し、また冬場にできた氷を夏場に都で売り、多大な収益を上げているそうでございます。
氷を売っていること、ご当人が氷を連想させる灰色の瞳をしていること、などから、「氷の公爵」と呼ばれている、と、されています。
しかし、領地の気候や、その瞳の色が、通り名の由来ではありません。
わたくしは、秋祭りの時に遠くからお姿を拝見しただけですが……閣下は、とても奇妙なふるまいをされました。
王家の覚えもめでたく、お家柄もよい閣下のやることですから、どなたも面と向かって文句をつけることはございません。氷の公爵と呼んで、こっそり留飲を下げるだけです。
閣下は、爵位を持っている相手だろうと、ご自分が気にいらない相手は無視し、従僕や侍女であっても、気にいれば傍に寄せて親しげにお話をなさいました。
とある伯爵が、精一杯愛想よく話しかけても、閣下はひややかに見詰めるだけで一切言葉を発しませんでした。まさしく氷のような冷たい振る舞いです。王子殿下がたが眉をひそめていらしたのを、はっきり覚えています。
まるで、氷でできた像のように、つめたく、微動だにしない。
閣下から相手にされなかったかたがたが、そのような閣下の態度から、氷の公爵のあだ名をつけたのです。それを知らないかた達は、ご在所が寒く、氷や氷菓子をつくっているからだと思っていますが……。
閣下はもうひとつ、奇妙な振る舞いをしました。「どのような身分の者でもかまわない」という条件で、花嫁を募集したのです。
◇◇◇◇◇
身分は問わない。ただ、わたしに対して嘘を吐かない、正直な妻がほしい。
閣下の願いはあきらかで、そして単純でした。
誰もが噂していたものです。おそらく、もっとお若い頃に、不誠実なお相手が居たのだろう。多情な女に酷い目にあわされたことがあるのだろう。だから、浮気をしないと確約してくれる妻がほしいのだ――。
何人もの、身分は様々な女性が、閣下の許へ赴き、面談をし、そしてそのまま帰ってゆきました。
誰ひとり、閣下の要望に応えられなかったのです。ただ、嘘を吐かず、正直であれ、というだけのことを、できなかったのです。婚約にいたった娘さえ居ませんでした。
都にあるオヴォシュ家のお邸で、その閣下はわたくしの前で、クラレットを呑み、機嫌よく、ゴブレットを傍らのテーブルへ置きます。漆黒の長い髪は、アイスブルーのリボンでくくってありました。ほんの数本、白髪がまじっています。まっくらな夜空に、帚星が尾を引いているようです。
嘘を吐かぬ妻がよい、と云っていたかたです。
だからわたしは、嘘を吐きませんでした。閣下を愛しているなんて云えません。
閣下は、どういう訳か、嘘がわかるようなのです。殿下は何度も、閣下の気持ちをたぐりよせたい、という令嬢がたから、仲立ちを頼まれてきました。そのほぼ全員が、閣下の質問に嘘を答えて追い返されたのです。
勿論、最初の関門を突破した女性達も居たけれど、二度三度と切り口をかえて質問されれば、ついぽろりと自分を飾るような言葉、相手を持ち上げるような言葉が出てしまいます。閣下はそうおった虚飾やおべんちゃらも好まず、そして何故だか、わかるのです。嘘、お世辞、虚飾、おべんちゃら、そういったものを見抜かれます。
なかにはいいところまでいったのに、質問ではなく普通のお喋りでうっかり嘘を吐き、追い返された娘も居たそうです。
殿下からそれを聴いていたわたくしは、だから、嘘は吐きませんでした。
閣下は機嫌よく、上にしている右足の先を、ひょいひょいと上下させました。
「明日にも、司祭を呼ぼう。君のご家族は? ご都合はどうかな」
「ありがたいお話ですが、結婚式に家族を呼ぶつもりはございません。呼ばないといけませんか?」
急な話に驚きながらも、わたくしはなんとか、そうお返事しました。閣下は頭を振ります。
「いや、君がいやなら呼ばなくてもいい。わたしは、君と結婚するのであって、君の家族と親戚になりたい訳ではない」
先程の楽しそうな声とは一転、ひややかな調子です。しかしすぐに、また、やわらかい声を出します。
「正直者なら、その限りではないが。ああ、君には承知しておいてもらいたいのだけれど、アレイアシュ?」
「……はい、閣下、なんでしょうか」
「正直に、腹を割って話す。わたしは手が不自由だ。知っているかな」
「ぞんじております」
閣下は爵位を継ぐ前に、決闘で負傷し、それ以来右腕の動きがぎこちない、と、殿下から聴いていました。
殿下は、わたくしの決意をわかってくださいました。ですから、閣下のことは、ある程度教えてくださったのです。嘘を見抜く不思議なお力のことも、決闘での怪我が許で、右腕の動きが不自由であることも。
フィオス公爵に会って、腕の動きがぎこちないのを目にした時に、先にそれを聴いていれば動揺も小さいでしょう、と。実際には、ろくに話もせずにあのような質問をされ、正直に答えたら結婚を提案されています。
提案、というよりも、閣下にとってはすでに決定した事項のようですが。
閣下は満足そうに頷きます。
「そうか。説明を省けてよかった。若かりし日の過ちだ。自分が無敵だと勘違いしていた頃のね。そういった時期の話をするのは、ああ、赤面してしまうようなことだ……で、誰から聴いたのかな」
「殿下です。王女殿下……」
「そうか、成程」
閣下はにやにやしていました。「それで、君は、わたしのような男に嫁ぐのは不安ではないのかな」
「どういった面で、でしょうか?」
質問に質問で返すのは無礼でしょう。特に、相手が公爵閣下とあっては。
しかし、今の質問は漠然としていました。閣下は正確で正直な答えを求めていらっしゃるのだから、わたしは間違う訳にいかず、質問を少しでも答えやすいものにしてもらうほかありません。
わたくしは椅子に、上品に優雅に見えるように浅く腰掛け、姿勢を正しています。
閣下は肘掛けに肘をつきました。胸の前で指を組みます。
「うむ、今の質問では、君は答えにくいのだろうね。わたしの疑問はふたつだ。決闘で、後遺症を負った、まぬけな夫を持ちたいか? 子どもに悪影響があるとは思わないか?」
「人間はおおむね、間がぬけているものではございませんか? 閣下の程度はさほどではないと思います。それでしたら、わたくしのほうが重症ですわ。慎みのない行動をし、ろくでもない……」
目を瞑りました。エンシャルカーダ邸でのことは、思い出すと涙がこぼれそうで、悔しくて体が焼かれるようで、忘れたいのです。なのに、こうやって不意に顔を出してきては、わたくしを苛むのでした。
息を整えます。ゆっくりと呼吸すると、落ち着きました。目を開けて、閣下をまっすぐに見ます。
「いえ、とにかく、閣下はわたくしには、まぬけなようには見えません。子どもへの悪影響は、わたくしからならありそうですので、同じことを質問いたします。わたくしをめとって、ろくでもない子どもができるとは思いませんか?」
「思わない。実に美しい子ができそうだと思う」
閣下は端的に答え、ひとつ頷くと、長い脚を解いて立ち上がりました。
爵位を継ぐ前には各地のトーナメントに出場し、決闘も多くしていたというだけあって、立派な体格でらっしゃいます。
身長はわたくしより、頭ひとつ半分高く、肩幅はひろく、胸板は厚く……閣下の目には、若い貴公子達が躍起になって肩に詰めものをしているのは、滑稽に映るでしょう。詰めものなどせずに、体を鍛えればよいのに、と。
長い脚のほうも、ズボンごしにも、乗馬に慣れた脚であるのがわかりました。お兄さまも、賭け事をはじめる前はあのような脚をしていらしたのに。わたくしは、おなかのなかに苦いなにかがあるのを意識します。
瞳は事実、かわった灰色をしておいででした。それから氷を連想するのも、わからないでもありません。池の表面が凍ってしまって、それでも底が見える時のような、不思議なきらめきがあります。なんとも云えない灰色なのです。
睫毛や眉毛にも、白いものがまじっていました。まだ二十代のはじめで、白髪になるような年齢ではない筈なのですが、要衝をまもる公爵である以上、気苦労は絶えないのでしょう。そういうかたは、はやくから白髪になってしまうと聴いたことがございます。
お顔立ちは、眉はあまりはっきりとせず、目尻が上がっています。鼻筋は通っていて、ほんの少し鼻先が潰れたようになっていました。美しい子ができそうだというのは、そうでしょう。閣下は文句のつけようがなく、美しいかたです。
首や手に、傷跡が幾つかあるのも、みえました。決闘やトーナメントでの、名誉の負傷でしょう。
とても立派で、尊敬できるかたのようだと、思いました。
そして、閣下はお金を持っています。
閣下はふと、戸口を見遣ります。
「もう遅い。客室を用意させよう。明日に備えて、しっかり寝みなさい。結婚式というのは、女性にとっては人生の一大事だそうだから」
「閣下?」
わたくしは視線を上げ、閣下の目を見詰めます。彼は面白そうに微笑み、小首を傾げました。
「なんだい、セニョーラ・トッシーニョ」
「そのおっしゃりかたは……」
エンシャルカーダ邸でのことを思い出して、肌が粟立ちました。閣下は表情を少しだけくらくします。
「ああ、気に触ったなら謝ろう」
「気に触った、というのではなくて、それを聴きたくありません」
率直な気持ちを口にすると、閣下は嬉しそうに、破顔しました。
「心配せずともいい。明日から君は、ドナ・アレイアシュと呼ばれるのだから。結婚を承知してくれたと思ってよいのだね?」
「いえ、おたずねしたいことがございます」
わたくしの言葉は失礼なものばかりですのに、閣下は決して怒りません。優しいお顔で、わたくしに続きを促します。「なんだい」
「閣下はお金持ちだとうかがいました」息を整えました。「率直に申し上げますが、我が家は幾つもの家に借金をしており、返済の目途は立っていません。このままでは叔父一家にのっとられてしまいます。トッシーニョ家の窮状を救って戴けますか?」
閣下はくいっと片眉を上げました。
「勿論。君が正直であれば、わたしは君を助けよう」
「では」
「君の家の借金について、訊いていいかな? それは、誰がつくったもの?」
「上のお兄さまです」
閣下はひとつ、頷きます。「では、どうして君の上のお兄さんが、その始末をつけない? 君が不愉快な噂に振りまわされて、愛してもいない男に結婚をちらつかせ、こうやって助けを求めているというのに」
「それは……」
わたくしは事情を説明し、閣下はまた座って、わたくしの話を静かに聴いてくださいました。彼は話を聴き終えると、トッシーニョ家の借金を肩代わりしてくれることを約束してくれました。そして、ごくごく真面目な顔で、おっしゃったのです。「わたしも率直になろう。妻になるひとには話そうと思っていた。君になら話せる。君ならば愛せる。わたしは呪われていてね、アレイアシュ。あれは最後の決闘の……」
お金がなく、侍女は妹達に残して、ひとりもつれてくることはできませんでした。
オヴォシュ家の使用人がわたくしの世話をしてくれることになったのですが、わたくしの評判を聴いているのでしょう、お世辞にもいい態度とは云えません。ぶっきらぼうに案内された客室は、埃っぽく、しばらく掃除した様子はありませんでした。
「ここは……」
「なにか、不都合がおありですか」
年嵩の侍女が鼻を鳴らしました。「お嬢さまのようなかたには相応しいと思いますが」
睨むと、睨み返されます。
「なんでしょうか」
「それが、明日には女主人になる人間への態度ですか?」
「わたくし達はお嬢さまが旦那さまに見初められた理由がわかりません。カネラ侯爵よりも旦那さまのほうが賢いと思っていたのですが、違ったのだろうかと不安になっています」
わたくしが云い返す前に、侍女は音をたてて扉を閉めました。わたくしは窓へ走っていって、開け放ち、いい空気をたっぷり、肺へとりこみました。窓は開けたままでもいいでしょう。凍え死んでしまったらその時です。それでも、閣下はトッシーニョ家を助けてくださるでしょうし。
翌朝、閣下の手配した医者の診察があり、そのあと、昨夜とは別の、しかし態度の悪い侍女に導かれ、裁縫室へ向かいました。お針子達が待ちかまえていて、あっという間にウエディングドレスを仕上げてくれます。閣下のお母さまが着たものを、わたくしの体に合うように直しただけなので、時間はそんなにかからなかったのです。
氷の欠片のような、透明な宝石がちりばめられた、夢のように素敵なドレスでした。そろいのネックレスに、髪飾り、靴も用意されています。侍女達の手伝いでそれらを身につけると、お邸の広間へ案内されました。
「やあ、花嫁さん」
そこには正装した閣下と、随分歳のいった、ひげの司祭さまが居ました。広間は一時的に、礼拝堂のような場所にかわったようです。使用人達が並び、立会人になっています。
わたくしは司祭さまに促され、閣下の隣に並びました。閣下はわたくしを見下ろし、にやにやしています。司祭さまが本を開き、お祈りの言葉を唱えはじめると、閣下はわたくしの耳許へささやきました。「ひと晩でそばかすが増えたのじゃない? 可愛いアレイアシュ」
「司祭さまに迷惑ですわ」閣下を見ずに答えます。「口を閉じていらして」
わたくしの声が聴こえたのでしょう、傍に立っている侍女が、ふんと鼻を鳴らしました。
波乱が起こったのは、司祭さまが、「この結婚に正当な理由で異議のある者は居るか」とお訊ねになった時でした。
「おそれながら、司祭さま」
昨夜、わたくしに失礼な態度をとった侍女です。閣下が面白そうに彼女を見ました。「なにかな、ペーラシュ?」
「閣下とそちらの女性とでは、どう考えても釣り合いません。そちらの女性は多くの男性と付き合いがあり、賭け事にも熱中していると聴いています。先代の公爵さまの時代から仕えてきたわたくし達は、旦那さまよりも賭け事を愛しているような女性がオヴォシュ家にはいることに納得いきません」
わたくしが抗弁する前に、閣下がつめたく云いました。「ペーラシュ、彼女自身が君になにかしたのかな」
「それは……」
「彼女自身が、なにかしたところを、君は直に目にしたのか」
閣下の表情は険しく、声には威圧感がございます。わたくしは閣下の隣で、身をかたくしていました。
侍女が云いました。
「そちらの女性は、わたくしが誠意を持って仕事をしていますのに、わたくしのことを旦那さまにいいつけると云いました」
「そうか」
閣下はにっこりしました。「ペーラシュ、いとまをいいわたす。わたしは嘘吐きはきらいだ」
侍女は抗議しましたが、閣下が従僕に命じてつれださせました。ひげの司祭さまは落ち着いていて、もう一度、異議のある者はないかと確認し、今度は誰も異議を申し立てませんでした。
司祭さまは、旦那さまに特別に依頼されたのでしょう。誓いの言葉は、普通のものではありませんでした。「汝、アレイアシュ・デ・トッシーニョは、ランプライア・デ・オヴォシュを敬い、その愛を拒まないことを誓いますか」
「誓います」
わたくしは嘘を吐くのをまぬかれました。
司祭さまがにっこりしています。
「汝、ランプライア・デ・オヴォシュは、アレイアシュ・デ・トッシーニョを妻に迎え、愛することを誓いますか」
「誓います」
旦那さまはわたくしとは違い、愛を誓ってくださいました。
わたくし達は結婚し、ひげの司祭さまは、旦那さまが手配したという卵黄菓子の箱を大切そうに抱えて、帰っていきました。
「彼はあれが好物でね」
普段着に戻って、社交室で斜になるようにして座り、わたくし達はそれぞれ、あたたかい洋梨酒を呑んでいます。秋祭りは数日前に終わり、冬の足音が都でも聴こえてきていました。
「あれを約束すれば、彼はあらゆる面で便宜をはかってくれるんだ」
「宜しかったのですか?」
「たまごを十個や二十個買ったところで、我が家は傾かないよ」
「そうではございません」
閣下はぎこちなく、右腕でマグを持っています。
「なに?」
「あの……侍女です。やめさせて、よかったのですか」
「彼女は嘘を吐いた。わたしは嘘吐きはきらいだ。愛するひとをおとしめるような嘘であれば、なおのこと厭わしい。これで充分では?」
わたくしは黙ります。
閣下が左手を伸ばし、わたくしの右手首へかすかに触れました。「アレイアシュ。君はなにも、心配しなくていい。君ほどわたしに対して率直になってくれた女性は、ほかに居なかった。わたしにとって、君は唯一無二のひとだ」
「閣下……」
「気が向いたら、ランプライアと」
閣下はいたずらっぽく笑い、わたくしの頬に口付けました。「ドン・ランプライアでもいいが」
あの無礼な態度の侍女はクビになったものの、ほかの使用人達がわたくしへの態度をあらためるかというと、そうでもありませんでした。
わたくしは女主人用の部屋をつかうことになったのですが、侍女達は注意しても、真面目に掃除をしません。いい加減にやって、すぐに逃げてしまいます。エンシャルカーダ家の影響力を目の当たりにした気がいたしました。
「じゃあ、クビにしてしまおう」
夕食後、いつも社交室であたためたお酒を楽しむようになっていたわたくし達は、お互いの一日を話すのもおなじみになっていました。侍女達の態度の悪さをつい、くさすと、閣下はさも当然のようにおっしゃいます。
わたくしは頭を振りました。
「優しいのだね、アレイアシュ」
「違います。切りがございません」
肩をすくめます。閣下から戴いた、氷のような宝石がきらめいているネックレスが、胸許でゆらゆらと揺れました。閣下は、アレイアシュに似合うものを見付けたから、などと云っては、わたくしにこのようにプレゼントをくださいます。
「きりがないとは?」
「あの子達をクビにしたところで、わたくしに関する不愉快な噂を聴いていない者を雇える保証はありません。でしょう?」
「君は計算高いね」
「ええ」
頷いて、肯定しました。なにがおかしいのか、良人はくすくすと笑います。
閣下は脚を解いて、マグをテーブルへ置くと、わたくしを手招きました。「おいで、ドナ・アレイアシュ。君の席はそこではない」
わたくしは苦笑いで、席を立ち、閣下の膝に抱かれました。立派な筋肉のついた脚は、ドレス越しでもあたたかさがわかります。
閣下はわたくしのうなじに顔を埋め、目を閉じて、眠そうなご様子です。
「お疲れですね」
「ああ。君が居てくれなかったら、わたしはもう生きてはいなかっただろう。君と話していると、疲れが溶けて消えてしまう」
閣下はわたくしの耳へ口付け、わたくしはくすぐったくて、少しだけ笑いました。
「そう、君に伝えなくてはならないことがあったのだった。トッシーニョ家の借金はすべて、肩代わりしたよ」
心臓がどきんとはねます。
閣下は眠そうな口調です。
「エンシャルカーダは最後までごねていたけれど、わたしがトッシーニョ家に金を渡した証拠はないし、金を返せと云っていたのが突然、要らない、というのはおかしなことだ。結局、受けとったそうだよ」
閣下はわたくしの、砂色の髪を、動きのぎこちない指ですうっと梳きます。
結婚直後、閣下は秘密裏に、わたくしの実家へ莫大なお金を融資してくださいました。利子は付かず、返済も求めないものです。下のお兄さまはそれで、各家への借金や、滞っていた支払いをどうにか綺麗にしました。半年前に辞めさせた管財人にも、未払いだった給金を払い、ほっとしていたところです。
幾つかの貴族は、トッシーニョ家が突然潤ったことに疑念を抱いたようで、最初は返済を何故か断るという、不思議なことになっていました。
ですが、エンシャルカーダ家以外は、すぐに閣下のご威光に屈したのです。閣下はパーティやなにかの集まりなどで、わたくしの下のお兄さまと親しげな様子を幾度も見せてくださいました。
わたくしは黙って閣下の傍に居るだけですが、閣下が妻の実家であるトッシーニョ家と親しくしているようだ、というのは、トッシーニョ家にお金をかしている家からすれば、威圧感を覚える出来事だったようです。
そしてエンシャルカーダ家も、とうとう折れてくれました。
これからは、閣下が見繕ってくれた優秀な管財人が、トッシーニョ家の領地を管理してくれることになっています。そのかたについて、下のお兄さまも経営を一から学び直す予定でした。上のお兄さまは……。
わたくしは頭を振ります。
「ありがとうございます、閣下」
「いや、約束だからね。君はわたしに、常に率直で正直でいてくれる。それがどれだけ難しいことか、わかっているのかな? とりわけ、そういう女性が君のように美人であることはめずらしいしね」
わたくしは苦笑いして、良人の手に触れます。「わかりませんわ、閣下。わたくしでは到底理解できぬことです。いえ、誰にも理解できません。閣下のことは、閣下のものなのですから」
「君のように喋る者だけだったらよかったのに」
閣下は目を細め、わたくしの頬にそっと口付けました。わたくしは目を瞑り、閣下の手に身を委ねます。
「アレイアシュ、君は乗馬は好きかい?」
「どちらとも申せませんわ」
朝、嬉しそうな様子で広間へとびこんできた良人へ、わたくしは苦笑いを向けました。
閣下はせかせかと歩いて席に着き、給仕の従僕がゴブレットにシードルを注ぐのをちらっとご覧になります。それから、わたくしへ向き直りました。
「いい馬を手にいれたんだ。都のすぐ傍に農地があることは知っているね? そこまで遠乗りしないか。農家で宿を請うのは楽しいことだ。焼きたてのパンや、搾りたてのミルク、すぐにもひよこが生まれそうな新鮮なたまごだって食べられる」
「楽しそうですね」
「うん、楽しいよ。それじゃあ、支度をさせよう。わたし達は馬にのっていく。使用人達が荷物を積んだ馬車でそれを追う。どうかな」
「ようございます」
わたくしが肯定すると、閣下は実に嬉しそうににっこりして、ゆでたまごの殻をスプーンの背でかちんと割りました。
閣下のおっしゃる「よい馬」は、脚が太く、優しい顔付きをしていて、立派なたてがみを持っていました。わたくしには馬の善し悪しはわからないのですが、閣下が喜んでいるので、よい馬なのでしょう。
閣下は、寒くないように分厚いコートをまとったわたくしを抱え上げ、馬へのせました。ご自分もすぐに馬へまたがります。「さあ、掴まっていて」
「はい、閣下」
馬の背に横に座ったわたくしは、閣下に凭れるようにして、掴まります。閣下は楽しげに笑い、手綱をひきました。
オヴォシュ家のお邸は、都の中心地にあります。そこから馬にのって出たわたくし達は、どうやら目立っているようでした。
しかし、閣下は氷のような態度で名をはせています。わたくし達を見てはっとした民衆達は、顔を伏せ、ただ、やり過ごします。
閣下はそれを、楽しげに眺めながら、ゆっくりと馬を歩かせます。右腕でわたくしを抱き、左腕一本で手綱をひいていました。「もう少し速度を出せないのですか?」
「出せるが、君は慣れていないのでは?」
「ええ。ですが、良人がおそれられている様子を見るのは、あまり愉快ではありません」
閣下は面白そうに、口角を上げました。
「フィオス公爵としてのわたしの力を、君は相当に利用したのに?」
「それとこれとは話が別です。貴族達が閣下をおそれるのは、当然のことです。功があり、ご立派なお家柄で、閣下ご自身もお強くてらっしゃる。貴族として、尊敬できる相手を、おそれながらも敬っているではありませんか?」
「決闘の腕は錆びついている」
「そうですかしら。わたくしにはそうは思えません」
頭を振り、沿道の民衆を見遣ります。「ですが、彼らが閣下をおそれるのは、違和感がございます。閣下は彼らになにかしましたか? 彼らが隣国との戦争にかりだされなくてもすむように、心を砕いているだけではありませんか。どうして、敬われこそすれ、おそれられるのか、理解に苦しみます」
「わたしが理解に苦しむのはね、ドナ・アレイアシュ」
閣下は声を低め、楽しそうに目を半月形にしました。「君が本音でしか喋らないのに、わたしの耳に心地よいことを云うのは何故だろうか、ということだよ。君はわたしを愛していないのに」
都を離れ、街道をしばらく行くと、畑がひろがっていました。といっても、今は作物はありません。
「この辺りはあたたかいな。うちの領地なら、今の時期は雪ばかりだ」
「雪はあまり見たことがございませんわ」
「つめたくて、白くて、子ども時代が終わってしまうとあまり愉快なものではないよ」
閣下はなおも、しばらく馬を走らせ、一軒の農家の前で馬を停めました。ひらりと馬からおりると、粗末な木戸をノックします。
なかから出てきたのは、ショールを体にまきつけたおかみさんでした。鼻が赤く、肌は荒れています。閣下はにっこりしました。
「やあ、ご婦人。こちらにひと晩、停めて戴けないだろうか。代金は幾らでも払う」
「はあ」
閣下の身なりから、それなりの地位のかただとはわかったのでしょう。おかみさんは値踏みするように、閣下を見たあと、馬に目をとめました。ぱっと目がきらめきます。「まあ、よい馬だこと」
「ああ、ヴィラ・コヴィレッテシュの産だよ」
「この子なら、銀貨二枚もあれば充分だよ。あんたと奥さんは、銀貨十枚」
「随分安く済むね」
「あら、高いほうが宜しいんですか? 旦那」
おかみさんは笑いながら、奥へ戻っていきました。大きな声で云います。「部屋を用意しておくから、馬は厩へ。観光に来たんなら残念だけど、畑以外にはなにもないよ。飯を食いに来たんなら、うまいたまご料理を振る舞ってあげる」
おかみさんは、自分で云うだけあって、おいしいオムレツを振る舞ってくれました。
幾ら閣下に抱かれていたと云え、体のひえていたわたくしは、あたたかいオムレツとあたためたクラレットで、ほっと一息つきます。燕麦とライ麦のパンは、閣下の云うように焼きたてではありませんでしたが、嚙みしめれば嚙みしめるほどに味わいがありました。
閣下はパンとオムレツをあっという間に平らげ、おかわりを要求しておかみさんを笑わせています。
「申し訳ありません。なにかお仕事中だったのではありませんか?」
「たいしたことはしてませんよ、奥さん。男達は狩りへ行って、あたしは薪割りをすませたとこ。あんたの旦那に邪魔されなかったら、レースをあんでいたかもね」
「まあ」
「おかみさん、このオムレツは都で食べるものよりもうまいよ」
「そりゃあそうでしょうよ。あっちにはいいたまごがないって聴いてるからね」
「いや、いい腕前の料理人が居ないんだ」
おかみさんはそれをお世辞だと思ったのでしょう、小さく鼻を鳴らし、せまい居間の隅にある小さな椅子へ腰を下ろします。傍にはバスケットがあって、彼女はそこから糸玉をとりあげると膝へ置き、細いレース針をつかってドイリーをあみはじめました。
閣下はそれを、興味深げに見ています。
「おかみさん、歳を訊いても?」
「二十六です。旦那は二歳上。子どもは十歳と八歳。どっちも男。旦那のお父さんと、弟と、伯父さんと一緒に暮らしてる」
答えながら、おかみさんは手を停めません。「それはどうするのかな」
「どうするって、売るしかないでしょう。これから厳しい冬だし、備えをしないといけないんでね」
閣下は頷いて、それ以上は喋りませんでした。
おかみさんの云うとおり、農地は寒々しいばかりで、なにもありません。唯一、冬に咲く花がほんのわずか、植えられていましたが、数は多くありませんでした。
閣下は左腕をわたくしの腰にまわし、ゆっくりと歩きます。わたくしは閣下に歩調を合わせました。
「アレイアシュ、不自由はある?」
「侍女達が云うことを聴きません。従僕も、わたくしへの態度がよくないようです。それ以外は、わたくしを愛してくれて、困らせようとしないお利口な旦那さまのおかげで、おおむね快適です」
閣下は笑います。畑に降りて、地面をほじくりかえしていた鳥達が、その声に驚いて飛び立ちました。
日が暮れて、あたたかくてスパイスたっぷりのクラレットを呑むと、わたくし達はせまいベッドで一緒に寝ました。あとから来る筈の、きがえやなにかを詰んだ馬車は、一向あらわれません。
狩りに出たという男性達は、翌朝、戻ってきていて、わたくし達は子どもの騒ぐ声で目を覚ましました。閣下が笑いながらベッドを出、せまい戸口を潜って居間へ向かいます。「騒いでいるのは誰だ?」
きゃー、と、嬉しそうな子ども達の笑い声がして、わたくしも笑いながら、良人を追いかけました。
居間では、閣下が子ども達を両腕に抱き、持ち上げたりおろしたりして笑わせていました。白髪の男性や、鼻の赤い男性が、それにくすくす笑っています。おかみさんが大きなお皿に特大のオムレツをいれて、テーブルにどんと置きました。「おはよう、奥さん。はやくとらないと、なくなるよ」
「まあ、大変」
わたくしは慌てて、縁の欠けたお皿二枚に、オムレツをとりわけます。おかみさんが大きな声で笑いました。男性達は、我先にとオムレツをとりあっています。「奥さん、悪いけど俺達もはらがへってるんだ」
「ちっと我慢してもらえないかね?」
「いやです、こんなにおいしいもの、食べ損ねたら主を呪ってしまいますわ」
「違いないや。うちののたまご料理は天下一品だろ」
閣下が子ども達を腕に抱いたまま、唐突に云いました。「あなた達は正直者らしい。どうだろう? 我が家で働くつもりはないか。わたしはランプライア・デ・オヴォシュ。フィオス公爵と云ったほうが伝わるだろうか」
白髪の男性が、口をぽかんと開け、おかみさんがパンをとりおとしました。
「旦那、失礼なのはわかるが」
閣下が紋章のはいった指環を見せると、一番歳上らしい白髪の男性が云います。
「どうして、わたしらみたいな者を雇おうと思ったんだ? わたしらは礼儀作法はわからんし、こういう口をきくのが無礼じゃないのかどうかさえ知らない」
「わたしに関して云えば、無礼ではないよ。わたしは真実を語る人間が好きなんだ。あなた達は嘘を吐かなかった」
「フィオス公爵といったら、侯爵を襲った悪女をめとったって云う……」
ちくりと胸に刺さる言葉でした。彼女はわたくしの噂を知っていたようです。単に、噂の人物が目の前に居るとは思わず、優しくしてくれたのです。
しかし、おかみさんはわたくしを見て、肩をすくめました。呆れたように鼻を鳴らします。「成程ね、わかったよ、閣下。あんた、奥さんを大切にしてるんだ。どっかのばかが奥さんの悪い噂を流したんで、嘘吐きをきらってるんだろ? 違う?」
「正確には違うけれど、そういう面もある」閣下は嬉しそうににっこり笑います。その腕に抱かれた子ども達は、状況をわかっていないのか、閣下の髪をひっぱって遊んでいました。「そして、今ので、わたしの目が正しかったとわかった。君は我が妻を見下さない」
「どうしてそんなことができるもんですか? オムレツをうちの旦那ととりあってる、こんなちっちゃなそばかす娘が、ろくでもない侯爵に色目をつかうなんて。この子を直に見ても噂を信じてる人間は、あたしに云わせればおおばかものだよ。大方、侯爵のほうがこの美人さんに粉をかけようとして袖にされたんで、くだらないことをぬかしたんだろ」
すうっと、胸の辺りがすっきりするような感覚がありました。
閣下は大きく二回、頷いて、子ども達を抱えなおします。
「この子達もまとめて雇う。ここがあなた達の土地なら、小作人を置いておけばいい。そうでないなら、ひきはらってしまえば問題はない。どうだろうか」
「ここは忌々しい侯爵の持ちもんだよ」
白髪の男性が吐き捨てます。「エンシャルカーダ家の飛び地だ。あのしみったれた男には、わたしらは飽き飽きしてたんだ。氷の公爵にお仕えできるんなら、産みたてのたまごや搾りたてのミルクがなくても、我慢して都へ行こう」
閣下が笑い、子ども達もつられて笑いはじめました。
馬車は溝にはまってこられなかったと、従僕が云い、閣下はその嘘を見破られました。職務怠慢と、数人の侍女と従僕が首を切られ、農家の皆さんがあたらしく侍女や従僕になりました。
「アルフェイゼラオン、ありがとう」
「いいえ。奥さま、髪はもう少しきっちりアップにしたほうがいいんじゃございませんか?」
おかみさん――アルフェイゼラオンは、にっこりして、わたくしの砂色の髪をさっとまとめて持ちました。「じゃなくちゃ、おろしてるほうが可愛いね。閣下はそれがお好きなようだし」
「そうかしら」
「そうですとも。形式だとか礼儀だとかは気になさらないかただし、髪は上げておかないといけないって決まりもないんだから、おろしたほうがいいかもしれませんね」
アルフェイゼラオンは今、侍女頭になっています。彼女が侍女のなかで一番偉く、わたくしに対して不遜な態度をとる侍女には厳しい処分を与えるので、このところは使用人達も態度をだいぶあらためました。
それに、閣下は、カネラ侯爵に鞭で打たれた、わたしの以前の侍女達も見付けだし、都へつれてきてくれました。ふたりは怪我が重かったそうで、まだ入院していますが、体が癒えたらわたくしに仕えてくれるそうです。
彼女の良人のオヴァールや、義理の父のミニョット、義理の伯父のレゼンテ、義理の弟のアーメンドアも、従僕としてよくやってくれています。
自分達で云っていたとおり、礼儀がなっていない場面は多々ありましたが、一度注意されれば大概、すぐにあらためました。彼らは素直で、正直で、飾りません。
「奥さま」
とことこと、可愛い従僕達が走ってきました。アルフェイゼラオンとオヴァールの子ども達、フィローシュとコシュコロインシュです。
ふたりは可愛らしいミニサイズの従僕の衣装を身につけ、手には大切そうに、花のコサージュを持っていました。
「閣下からです」
「まあ」
「今夜のパーティに、これをって」
コシュコロインシュがぷくぷくした手で、コサージュをわたくしの胸許へ飾りました。フィローシュもそうしてくれます。レモンの花をかたどった、存在感あるコサージュは、清涼感のある淡い水色のドレスにぴったりでした。
「ありがとう、ふたりとも。閣下にも、お礼を伝えて」
「はい」
ふたりはお辞儀をして、出て行きます。アルフェイゼラオンは、鏡を見ながら、わたくしの髪をどうするか、それからしばらくなやんでくれました。
「今夜は一段と美しいね」
「ありがとうございます、閣下。閣下も、いつにもまして、ご立派です」
閣下はくすくす笑います。
今夜は、トッシーニョ家の爵位が下のお兄さまに継承されたことが発表される、パーティです。ほかにも爵位の継承があり、幾つかの家と合同での発表でした。宮廷にある大広間で、陛下の代理である王女殿下が宣下されます。
わたくし達は馬車にのって、宮廷へ向かいました。わたくしの馬車にはアルフェイゼラオンが同乗し、オヴァールが御者をしています。閣下の馬車はミニョットが御者をし、レゼンテとアーメンドア、子ども達はお留守番です。
宮廷までは、そう時間はかかりません。わたくしはほっとしていました。ようやく、怯える日々が終わるのです。下のお兄さまに正式に爵位が継承されれば、もう、上のお兄さまのことでなやまされなくてすみます。これで、やっと……。
馬がいななく声がして、オヴァールが短く、なにか叫びました。アルフェイゼラオンが目を瞠りました。「あんた?」
馬車が突然、停まり、外からオヴァールの悲鳴が聴こえ、わたくし達はのりこんできた男達に腕を掴まれたかと思うと、あっという間に袋へいれられて――。
「ドナ・アレイアシュ」
閣下の声がします。「起きなさい」
息をのんで目を覚ますと、閣下はわたくしの体をかき抱きました。わたくしも閣下にすがりつきます。
「ランプライア」
「ああ、こんなところでようやくと、名前を呼んでもらえるとはね」
閣下は掠れた声で云い、わたくしをひっぱって立たせました。わたくし達は手をとりあい、お互いを支えながら歩きます。
そこは、廃屋らしいところでした。埃っぽく、天井が一部、抜け落ちています。閣下が光の差してくるほうへ向かい、ゆがんだ扉を開けようとしましたが、できませんでした。
閣下は鼻を鳴らし、数度、扉を蹴ります。すると、不意に扉が開きました。「閣下、奥さま」
「アルフェイゼラオン」
わたくしの声は酷く掠れています。自分でも気付かないうちに、泣いていたようです。閣下が怒った顔で、埃まみれのアルフェイゼラオンとオヴァールへ云います。「ミニョットは?」
「それが、さがしたんですが居なくて」
「閣下、親父のことはどうでもいいです。逃げましょう。親父も、閣下に迷惑をかけるのはいやがります」
「それはよくない。君が本音で喋っているのはわかるが……」
閣下はにやりとしました。「ありがとう、オヴァール。君らは得がたい使用人だ。ミニョットを救い出して急いで宮廷へ参じよう。なに、多少汚れていても、陛下も殿下がたも目くじらを立てることはないさ。さあ、いざゆかん!」
部屋の外は、埃に足跡がついている廊下でした。ぎしぎしと軋むそこを歩き、オヴァールが見付けた階段を降ります。アルフェイゼラオンもオヴァールも、わたくし達がとじこめられていた部屋の向かいに居たそうです。わたくし達が起きる前に起きて、扉を壊して廊下へ出、ほかの部屋をあらためていたところだったとか。
一階に降りると、「いかにも」なごろつきがいました。お芝居でもこんな男達は見ません。顔に傷やいれずみがある男達は、手に手に武器を持ち、大声を出してわたくし達へ飛びかかってきます。
オヴァールが手前の男へ体ごとぶつかって床へ倒し、アルフェイゼラオンは傍にあった椅子を掴んで、男の頭に叩きつけました。閣下は落ちた剣を拾い上げ、すばやい突きでふたりを倒し、三人目は頭突きで沈めます。
わたくしがおろおろしている間に、残りの悪漢達は不利を悟って逃げていきました。
「なんだい」アルフェイゼラオンが、壊れた椅子を放り投げました。「歯ごたえのない連中だね」
男のひとりにクラレットをかけて起こし、閣下が少々凄むと、縄はなくとも彼はおとなしくなりました。
「誰の指示かな」
「旦那、そればっかりはご勘弁を」
男は嘘こそ吐きませんが、口を割りません。閣下は剣の腹で男の顔をぺたぺたと叩きました。
「では、ミニョットの居場所は?」
「ミニョット? 御者のじいさんなら、逃がしちまって、仲間が追って……今頃、殺しちまってるかも……」
閣下がひややかに睨んだので、男は口を噤みました。
閣下が振り返ります。「アレイアシュ、折角の晴れの場に、申し訳ないが、きがえる時間はない。いいか?」
「かまいません」
閣下はにっこりしました。「真実のみがわたしを強くする」
「遅れて申し訳ございません、殿下」
閣下は丁寧にお辞儀をします。漆黒の髪は埃まみれで、服もそうです。格闘の返り血もありました。
わたくしのドレスも汚れが目立ち、コサージュはひとつなくなっています。
陛下の名代である王女殿下は、戸惑った様子でしたが、顔を引き締めました。つい先日、陛下が跡継ぎに、王女殿下を指名したのです。お兄さまがたもいらっしゃるのに異例なことですが、国法に反した訳ではなく、正当な継承であると議会も僧達も認めました。
「フィオス公爵、遅れたことはかまいません。ですが、あなたの妻の兄の晴れの場です。控え室で、きがえたほうが宜しいわ」
「申し訳ございませんが、御者がひとり行方不明で、侍女も従僕もさがしに行っているのですよ。こちらへ参る途中、暴漢達に襲撃され、毀屋にとらわれましてね。それで、きがえを手伝ってくれる人間が居ません」
王女殿下は今度こそ、言葉を失いました。
笑い声がします。声の主は、カネラ侯爵でした。
「いや、傑作だ!」
意地の悪い目でわたくしを見ます。侯爵の顔にはまだ、鞭でつくった傷が跡を残していました。「閣下。閣下を狙う愚か者が居るとは思えません。おそらく、閣下の奥方を狙ったのでしょう。奥方には、結婚前から、いろいろと噂がありますからな」
「そうだろうか」
カネラ侯爵の顔がかたまりました。閣下は普段、彼を無視しているのです。式典の時でもそうなのに、今、返事があるとは思わなかったのでしょう。
閣下はゆがんでしまったリボンをとって、漆黒の髪をばさりと払いのけました。
「わたし達夫婦を狙ったもののようだったが。例えば、妻に関して無責任に嘘をばらまいた連中が、それを主導しているのではないかな」
「それはどういう」
「エンシャルカーダ」閣下はゆっくりと頷きました。「我が妻は、結婚するまで清らかだった。結婚式の朝に、医者に診せて、証拠もある。あなたは毒婦にいいよられたのではなく、処女を襲って返り討ちにされたのでは?」
「ばかな! それこそ嘘っぱちだ! わたしはそのようなことは、これまで一度だってしたことはない!」
「殿下」
閣下がにこやかに云いました。「嘘です」
王女殿下の反応は素早かったです。「儀仗兵、カネラ侯爵を捕らえなさい」
儀仗兵達がカネラ侯爵をとりかこみましたが、さすがに武でならした人物です。簡単には捕まりません。
「閣下!」
埃まみれになったアルフェイゼラオンとオヴァールが、ミニョットに肩をかしてやってきました。「親父を見付けました! 閣下のおっしゃるとおり、エンシャルカーダのお邸に居ました! 閣下達が居るかもしれないって這入りこんで……!」
「わたしはなんともありません、閣下! あの邸の連中は腑抜けばかりだ!」
ミニョットは顔を血で汚していましたが、豪快に笑います。
「アレイアシュ?」
閣下がわたくしを見ます。「君はわたしを愛している?」
「はい、閣下。そのように思います。少なくとも、ほかの誰よりも、閣下のことが大切です」
閣下は嬉しそうに頷くと、儀仗兵を搔き分け、カネラ侯爵へ向かっていきました。
閣下の右拳がカネラ侯爵の鼻に命中し、カネラ侯爵はその場に倒れ伏します。
王女殿下があおざめて、しかし、しっかりと声を出しました。
「あの者をつれだして。ドン・ランプライア、ドナ・アレイアシュ、あなたがたはきがえるべきです。わたくしの侍女と従僕をかしますから、控え室へ行きなさい」
「大変なことだったな、アレイアシュ」
控え室で、宮廷の侍女達に手伝ってもらってきがえ、案内された部屋には、下のお兄さまと閣下が居ました。閣下はわたくしを膝に座らせ、ぎゅっと抱きます。下のお兄さまは顔色が悪く、湯気のたつクラレットを呑んでいました。
「お兄さま、あまりお酒をすごさないで」
「ああ、わかっている。だが、あのようなことがあったあとでは、これくらい呑まなくては気絶しそうだ」
「それで、お兄さまは、あのようなことに……」
王女殿下がやってきました。わたくし達が立とうとすると、殿下は手で制します。「かまいません。じっとしていて」
殿下は振り返ると、侍女達に顎をしゃくりました。侍女も従僕も出て行きます。
扉が閉ざされました。殿下はお兄さまの隣の椅子へ腰掛け、威厳たっぷりに云いました。
「それで、ランプライア。呪いはどうなったの」
「特に変化はありません。しかし、妻が真実しか口にしないので、わたしの命が縮まることはないでしょう」
「そう、それはよかった」
閣下の呪いは、隣国の貴族との決闘に際してのものです。決闘それ自体は、戦争を回避する為のものでした。王家同士の約束で行われたのです。
その者は呪術の心得があり、決闘で閣下に倒され、命をつかって呪いをかけました。
嘘を耳にすると、力が弱まり、命が縮まる――。
この世には、真実だけを口にするひとはそう居ません。挨拶がわりにお世辞を口にするひとも居ますし、気持ちを隠して嘘を吐くひとは幾らでも存在します。閣下はその嘘を耳にする度に、力を、そして命を削られていくのです。これ以上に残酷な呪いがあるでしょうか。自分が気を付けていてもどうしようもないことなのです。だからこそ、閣下は正直な使用人だけを残し、嘘を吐いた者は解雇するようにしていました。
単純な呪いですが、解く術は未だに見付かっていません。王女殿下はオヴォシュ家とは親戚でもあるので、八方手を尽くしてくださっているのですが。
しかし、呪いはある効果ももたらすとわかりました。
真実を耳にすると、閣下は力が増すのです。真実だけ聴いていれば元気ですし、常人には不可能なような力さえ出せました。
そして、隠された真実を耳にした時、呪いは一番の効果を発揮しました。
下のお兄さまが沈痛な面持ちになっています。
「閣下、殿下。おふたりには、心を砕いて戴いて」
「かまいません、ボレイマ」
殿下は身をのりだし、お兄さまの手を掴みます。ふたりが目をかわし、わたくしはその親しげな様子に目を瞠りました。
閣下がたのしそうに云います。「おや、また、隠された真実があるようですね」
「ランプライア、あまり無粋なことを云わないで」
殿下は眉をひそめます。「秘めておきたいことはあります。勿論、あと少しすれば、秘密ではなくなるわ。王配が誰になるか、誰だって気にします。エンシャルカーダというあなた以上に無粋で不愉快な者を排除できて、よかったとだけ云っておきます」
「それは、お役に立てたようでよかった。義理の兄にも感謝されるかな?」
「勿論です、閣下」
下のお兄さまは項垂れます。閣下が頭を振りました。
「いいや。正直者の妹さんを、わたしのような者へくれて、ありがとう。君を、そして王女殿下を、できる限り支援すると約束する。わたしに重大な秘密を打ち明けてくれたひとの、大切なひと達だから」
それで、わかったのでしょう。下のお兄さまは驚いたように閣下を見、わたしを見ました。「話したのか? 兄さんのことを」
「はい、お兄さま」わたくしは頷きます。「わたくしがベーバドシュお兄さまを殺してしまったと、しっかり伝えました」
去年の初夏のことでした。
お兄さまはどうかしていたのでしょう。お酒の呑みすぎで。もしくは、孤独で。
お兄さまは、わたくしのことを、かつて婚約していた相手だと思い込んでいました。少なくとも、そのように口にしました。
そして、お兄さまはわたくしの寝室へ忍びこみ、わたくしは逃げて、お兄さまを突き飛ばし――蝶番の壊れた窓はお兄さまの体重を支えきれませんでした。
死体は、侍女達が隠してくれました。下のお兄さまや弟達と相談し、お兄さまのことが公になったら、まず間違いなく叔父が横槍をいれてくるだろうと結論しました。それで、黙っていることにしたのです。病死だとか、事故死だとかと糊塗するのは、うまくありません。死んだことそれ自体をなかったことにしました。借金は予想外のことでしたが、お兄さまは死んでいるので、わたくしたちがどうにかするしかありませんでした。
借金がなくなり、オヴォシュ家とのつながりが認知され、多くの貴族に根回しをして、ようやくと、下のお兄さまに無事に爵位がまわってきたのです。時期を見て、お兄さまが死んでいたことを発表する予定でした。寝室の窓から落ちた、と、真実のみを。
式典は滞りなく終わり、カネラ侯爵は複数の貴族とともに捕らえられました。若い女性に対して唾棄すべき行為をしていた、と、彼らはあっさり処刑されました。陛下が大変怒ってらっしゃるとかで、裁判がすぐに終わったのです。エンシャルカーダ家がなくなることはありませんでしたが、王家の送りこんだ管財人がすべてを管理することになりました。
ボラシャ家はわたくしの妹との婚約を望んできましたが、下のお兄さまがそれを断りました。エンシャルカーダとのつながりがなくなったボラシャ家は、このところ困窮しているそうです。
叔父一家は、娘の婚約を破棄され、エンシャルカーダ家と親しくしていたことからほかの貴族にもそっぽを向かれて、都を去りました。王国と友好関係にある国へ居を移したそうですが、その後の動向は聴きません。
わたくし達が捕らえられているのではないかと、エンシャルカーダ家へ単身のりこんだミニョットは、閣下に誉められました。ミニョットは若い頃に従士をしていたそうで、閣下はミニョットを従僕から騎士へとりたてました。ミニョットは誇らしげに、たまに剣を佩いて、閣下のお仕事についていっています。
最近、態度をあらためた使用人達が、わたくしに謝りました。それに嘘はないと、閣下が太鼓判をおしたので、わたくしは彼らをゆるすことにしました。まだ納得はしていませんけれど、と本音を云うと、閣下は笑います。
「どうして……」
邸の、あたたかい暖炉の前で、わたくしは閣下の膝に抱えられています。閣下はわたくしの首に顔を埋め、目を閉じていました。怪我の癒えた侍女達がやっと、このオヴォシュ邸にやってきて、態度をあらためたもののあまり業務に熱心ではない侍女達を指導してくれているので、社交室は以前よりも随分綺麗に、そしてすごしやすくなりました。火除けの衝立は、オヴァールが工夫してくれた、しゃれたものです。
「閣下?」
「ああ」
「どうして、兄を殺したわたくしを、めとろうとしたのですか?」
「君が美しかったからだよ」
閣下は小さく笑います。
「どうしてだろうな。自分でもよくわからない。だが、こうやって呪いに身を蝕まれていると、些細なことが凄く嬉しくなるんだ。今日も生きている、今日も食事がうまい、今日も腕が動く。そして、真実を語り、わたしに力を与えてくれる美しいひとが居る。……いや」
閣下は顔を上げ、わたくしをまっすぐに見詰めました。
「どうでもいいのかもしれない。君が嘘を吐いていたとしても、わたしは求婚しただろう。君を抱きしめて、なんでもないことを話して、一緒に居たかった。それだけではだめかな?」
「かまいませんわ」
わたくしは答えながら、閣下の呪いを羨ましく思いました。呪いがあれば、今の言葉が嘘か本当か、わかるのに。
2023/02/05キャラクター名を一部変更しました。