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一月の霧

作者: 糸巻き鳥

陽は微睡んで空は少しだけ白けている。

冷たく刺さる朝に霞が覆いかぶさる。吐く息は、まるで凛と音が鳴る様に空気を白く曇らせる刹那、霞に溶けた。

音まで凍った世界。自分の鼓動が、聞こえる気がした。


 パンの焼ける匂いで、世界は色付く。喧噪が芽吹き、霧の先に人が行きかう。

カンカンカン、と、けたたましい音と共に、踏切が雑踏をせき止めた。本から目を放す。隣には君が居た。


 凛と音が鳴った。


「部活?」と、僕は尋ねた。

「そうだよ」と、君は答えた。

 踏切が、僕らの会話を遮ろうとけたたましく叫び続ける。君の持つ赤いシューズケースには、勝利の女神の翼が書かれていた。

「何を読んでいるの?」

 不意に投げかけられた問い。とっさに、本を隠した。匿う理由があった。

「なんで隠したの?」

 当然の問い。隠匿するための答えを探したが、霧が濃い所為か、見つからなかった。

 踏切が開くと、淀んだ人込みがまた流れ出す。恥ずかしそうに差し出したニーチェを見て、満足そうな微笑みをこぼす君。

「あー、なるほど、実は・・・」照れくさそうに、はにかむ。「僕も最近読み返したんだ」

 同じ中学校に通っていたころ、僕たちはカッコつけてニーチェを手に取った。退屈な言い回しの数々は、まるで罠みたいに僕たちを追い払い、やっとの思いで読み終えても、その内容は砂のように零れて行った。苦行に対して、あくびという対価を得て、僕らのニーチェは本棚に封印された。

 またその本を取った理由は分からない。気まぐれかもしれないし、今日の為の必然のようにも思えた。

「どうだった?」

 僕の問いに、君は「なんだか陳腐だった」と答えた。

「だよね」と二人でニーチェを笑う。

 十字路。信号が変わる。

「じゃあね」

「うん」

 道が違えた。本を持つ手が悴む。手袋を嵌めて、ニーチェはコートのポケットの中に隠した。


 吹奏楽部の楽器の音出し、運動部のランニングの掛け声、演劇部の発声練習。何重もの調べが、霞で淡く濁った朝に不調和音を奏でる。それはまるで、お祭りのように賑やかで、心が躍る。陽はすでに目覚め、照らされた校門が長い長い影を校舎に向かって伸ばしている。

 部室に向かう道すがら、同じく部室棟に向かっている生徒たちが、おそろいの白い息を吐きながら、顔なじみとあいさつを交わしている。

 この時間は、いつも、もぬけの部室に、後輩が一人残っていた。

「先輩、ちわっす」

 元気な後輩の挨拶。

「うん」と、素っ気なく答えた。

 パンツ一枚になって、姿鏡の前に立つ。華奢な体。腕を曲げて力こぶを作って見ても、まるで様にならない。

「先輩、さすが長距離だけあって細いっすよね」

「そうかなぁ」

 体に力を入れてみても、枝の様な四肢は膨らまない。もうすぐ春が来る。きっとそのころには、指の先から蕾が生えてくる。

「それじゃお先に失礼します」

 着替え終わった後輩が飛び出すと、代わりに入ってきた冷たい空気が、裸の僕を揶揄う様に撫でつける。

 スパッツを履いてランニングパンツを重ねて履く。上はTシャツを一枚を羽織るだけ。凍えるような寒さも、走っていれば熱で上書きされる。


 戸を開けた。目の前が白く染まっていた。


 さっきまで、ぼんやりと漂っていた霧は、いつの間にか濃く、深く、厚く膨れ、視界を覆い隠す。

「おーい、校庭に居るやつは校舎にはいれー!」

遠くから響く、教師の声。霧の中から這い出て来るガヤガヤと蛙鳴の様な喧噪で、白く塗りつぶされた様な錯覚から覚めた。

 振り返る。

 部室が霧に隠されて消失した。

 闇雲に当たりを探しても、部室は見つからない。取り残された僕は、光に誘われる蛾のように、遠くに聞こえる喧噪に縋った。

 

 寒さに急かされて、霧をかき分けて進むと、ぼやけた大きな影が現れた。屋外トイレだ。それは、野球部用のグラウンドとプールの近くに二つだけ設置されている。男子トイレの中を覗いても仄暗く、人の息遣いは無い。

 女子トイレの方からは光が零れていた。薄暗い霧の中で見つけた光は、憚られると知りながらも、抗えない引力で僕を引っ張る。

「あの、誰か・・・」

 気恥ずかしさから、か細く上がった渾身の声への返事の代わりに、目隠しの壁の横から顔が二つ覗いた。二人ともおそろいのウィンドブレーカーを纏っている。それがテニス部のものだと知っていた。

「どうしたの・・・寒そうだけど」

 知らない女子。

「着替えようと思ったんだけど、部室に戻れなくて」

 そう答えると、もう一人の女子が尋ねる。

「あ、君も遭難者?」

「遭難なのかな」

 ふと宙に零れた疑問に、二人は顔を見合わせ「さすがに学校で遭難は無いかぁ」と楽しそうに、はにかむ。

「ちょっと待ってて」

「あ、わたしも」と、僕が一歩たりとも踏み入る事の出来ない聖域へと身を隠す。戻ってきた彼女たちの手には、学校指定の白いジャージ。白は女子、黒は男子。袖と襟の淵の赤いラインは、彼女たちが二年生であることをそっと告げ口した。

「着ていいよ」

「私のも。一枚じゃ寒そう」

 躊躇いが鬩ぎ合うが、四の五のなど一も二も無い。

「ありがとう」

 お礼を言って、それを羽織る。いつもなら忌々しい、藁みたいにか細い我が身が、小さな女子のジャージを難も無く受け入れた。甘い香りが鼻をくすぐる。柔軟剤の香りだと知りつつも、女子の服だと思うと、より馥郁と感じてしまう。

 まだ、ホームルームが始まるまでには一時間近く余暇がある。二人は冬眠するリスが春を待つ様に、ここで霧が晴れるのを待つつもりだろう。

「ねぇ」と、一人が呟く。「ここって、野球とプール、どっちのトイレか分かる?」

 正直に「わからない」と答え、「どうして?」と尋ねた。

「出るんだって、野球部の方の女子トイレに」

「お化けが?」

 二人は顔を曇らせながら一生懸命に頷く。

 ジャージのお礼も兼ね、「それなら、確認してこようか?少し離れればどっちか分かるだろうし」と、提案すると、「いいの?!」と二人の顔が晴れる。

「だけど、少し離れただけで部室を見失った実績があるんだ。もし戻れなかったらジャージ返せなくなるし」

「大丈夫!」と、食い気味の返事。「トイレットペーパーの端を持っていけば戻ってこれるよ」

「いざとなったらA組に届けてくれたらいいから」

 女子二人に背中を押され、霧の中へと旅立つ。手にはトイレットペーパーの端。溺れた人が縋る藁の様に頼り無いけれど、藁みたいな体の僕とはお似合いかもしれない。ほんの数メートル進んだだけで、郷愁の様な感覚に襲われて振り返れる。また、空白に取り残された。遠くで聞こえていた喧噪も止んで、自分だけの輪郭が際立つ。それは、たぶん孤独の気配だ。手に持っている心許ない命綱だけが、辛うじて名前も知らない彼女たちと繋がっている。霧の壁が迫る様な感覚に気圧されて、一歩後ずさると、何かを踏みつけた感覚があった。振り返ると、盛られた土の端っこを踏んでいる。中央に埋められた長方形の白いプレートで、そこが野球グラウンドの真ん中だと分かった。ハズレだ。少なくとも、あの二人にとっては。

 霧が晴れるまでの、ほんのひと時の安寧の為に、二人には些細な嘘を吐こう。

 真っ白な霧に伸びていく真っ白なトイレットペーパーを辿って帰ろうと、少しだけ引っ張った瞬間、紙が切れた。

「あ」

 無作為に放たれた間抜けな声は、どうせ深い霧で誰にも届かない。道標を霧に飲み込まれて失った。手元に残った切れ端は、少し濡れていた。多分、霧の湿気で溶けたのだろう。

「戻ろう・・・」

 零れた独り言。決意と言うにはか細い。それでも、霧が狂わせる方向感覚と距離感を頼りに、二人の所へ戻るためには、必要な儀式のように感じた。

 そんな心細さが、霧を一層濃くする。霧に向かって、重い一歩を踏み出した。


 淡い光。永遠に続くと思っていた白い世界で、やっと見つけた標。手繰り寄せる様に、足を速めた。たどり着いたのは、運動部が使う用具をまとめて入れて置くための、テニスコート位ある大きな倉庫。部室錬の端っこにたどり着いたらしい。光と人のざわめきが、抗い難いぬくもりになって漏れている。

 扉を開けると、暖かい空気が、冷えた僕の体に纏わりついた。ざわめきが凍ったのは、凍えるほどの外気の所為ではなかった。先客の視線が一斉に僕に向く。

「寒そうじゃん。これ着なよ」

 と、自分のベンチコートを土産に寄ってきたのは野球部の元エースの高木だった。知り合いではないけれど、この学校の生徒だったら誰でも知っている。推薦で大学が決まっているのに、何故か大学ではなく高校で練習している変な奴だ。

 断る理由も無いし、「ありがとう」と言って受け取ると、高木の顔が曇る。

「おまっ、男かよ」

 一瞬、何を言っているか分からなかったが、自分が女子から借りたジャージを着ていることを思い出した。血の気が引くような、その感覚に名前を付けようとしたが、どうもピンとこない。やりきれないこの気持ちは、絶望には程遠い。ただ、女子のジャージを羽織った程度で擬態してしまう程、華奢だとは思っていなかった。

「・・・返すよ」

 恥ずかしさが高木への憤りに変換される。手に持ったベンチコートを差し出した。

「いいよ、着とけよ。寒そうだし。大体、そういうんじゃねーし」

 五厘刈りから大分伸びた頭をバツが悪そうにさすっている。

「ねぇ」

 女子の声。声の方を見ると、眼鏡を掛け、制服を着た女子生徒が近づいてくる。彼女の事も、知っていた。生徒会長の藤森だ。

「そのジャージ」

 彼女の指が僕の心臓あたりを指さす。そこには名札が付いていた。

「二年の佐藤って、テニス部の?そのジャージ、どうしたの?」

 彼女の、不安そうな顔を見て、すべてが繋がった。

 野球部用の野外トイレに出る幽霊。あるはずの無い故人のジャージ。つまり・・・、

「佐藤さんが・・・トイレのお化け?」

「何言ってるの?」

 藤森の呆れた顔。

「小学校から一緒の幼馴染なの。まさか、あのトイレで会った?」

「うん」と答えた。

 彼女の顔が不安そうに増々曇る。

「でも一人じゃ無かったよ」

 と、ジャージを一枚脱いで、左胸を見ると、吉田と書いてあった。

「あ、吉田さんと一緒か」

 少し残念そうな顔。

 高木が申し訳なさそうに手を上げて、「ちょっといいか」と割り込んできた。

「あそこのトイレって女子の方も野球部が掃除してんだよ。だから女子マネでも使わなくてさ。その所為で変な噂たってるけど、幽霊なんて居ないぞ」

 藤森が眼鏡のブリッジ部分を軽く押し上げる。

「いや、そんなこと信じてませんよ」

 だけど、顔を陰らせていた不安の色は、明らかに薄くなっていた。

 あたりを見渡してみると、倉庫に仕舞ってあった円柱状のストーブ三つに火が灯っていて、その周りに十数人の生徒が思い思いに屯していた。ジャージを着ている運動部が多いけど、制服を着ている生徒もちらほらと混じっている。

「ねえ」

 疑問を口にした。

「なんで部室錬を辿って教室にいかないの?」

 二人が顔を見合わせた。部室錬はすぐ隣で、そこを辿れば校舎まで迷うはずが無い。

「いや、戻れる気がしなくてさ」

と、高木が口を開いた。

「ここまで結構迷ってさ、方向とか距離とかがどうも感覚と合わなくて」

「ですよね、渡り廊下に出ただけの筈なのに何故かグラウンドにいたんです、私」

と、言って、藤森は足を上げて上履きを見せた。

「やっと暖かい場所にたどり着けたんで、正直離れたくないですね」

 それから僕の方を見て、「霧が晴れるまでここに居た方がいいよ」と言った。

「うん」と答えようとした刹那、パチパチパチと、拍手が響き渡った。コンクリートの壁に反射して、それはまるで喝采の様だった。

 拍手の先で、フルートとクラリネットを持った女子二人が、照れくさそうにお辞儀をしていた。

 まずはフルートを持った女子が、楽器に口を付けた。一拍置いて、音が奏でられた。有名な曲だ。名前はたしか、ラヴェルの、ボ・・・ボ・・・思い出せない。最初の何小節かが終わると、クラリネットとの二重奏になって、同じ曲を繰り返した。

 とんとん、と、誰かが僕の肩を叩いた。振り返ると、僕と同じくらいの背丈の男子が居た。制服を着ていて、体格も運動部には見えなかった。青いタイ。一年生だ。

「失礼、チョーローがお呼びです」

「え?なんて?」

 聞き慣れない単語が、捉え損ねて逃げていく。次は捕まえようと、耳を網の様にそばだてる。

「長老です、長老。長老があなたをお呼びです」

 聞き間違えでなければ、彼は長老と言ったはずだ。場違いな言葉にたじろぐ僕を気にすることなく、彼は「こちらへ」と、手招く。

 彼は薄暗い隅の方へと僕を誘った。壁が近い所為で、ベンチコートを着ていても肌寒い。暗がりの奥には、高跳び用のマット。その上に、太った男が座っている。どう見ても運動部ではない。その貫禄からはどう見てもそうは見えないが、青いタイを付けている。彼の回りには、僕を呼びに来た男と似たような雰囲気の男女が何人か屯していた。

「やーやー、よくきてくれたね!」

 隅っこの暗がりとは対照的に、男は陽気そうに喋りだした。

「君が長老?」

 と、尋ねると、長老は陽気に答える。

「いやーまいっちゃうよねぇ、某が一番最初にここに辿り着いたってだけで長老なんて呼ばれちゃって。あ、でもストーブ付けたりしたのも某。気が利くでしょ」

「うん、おかげで暖かいよ、ありがとう」

 お礼を受け取った長老は、屈託なく笑う。

「でゅふっ、あ、そうそう、こんなところにお呼び建てしたのはね、君に伝言があってね」

「伝言?僕に?人違いじゃなくて?」

 その疑惑を精査するように、長老が僕をのぞき込む。

「間違いないですねぇ。実はここから出てった人も何人か居て、その中の一人が君に伝えてほしいと」

「もったいぶらないで教えてよ」

と、催促。長老は意に介さない。

「いや、失礼、そんなつもりは無いんだけどね。それが不思議でさ、場所も時間も指定せずに、ただ『待ってる』とだけ告げてね」

「えー・・・、どんな人?」

 長老は意地悪そうに微笑む。

「いやいや、それを言っちゃったらなんか面白くないじゃないですか、はい、これ選別。」

 と、言って、黒いマフラーを投げて渡した。

「いや、行くなんて誰も・・・」

「だめだめ!」と、長老が言葉を遮る。

「某、こういう展開大好きなの!さあ、旅立ちの時だよ!」

 長老が太い指をパチンと鳴らす。家来たちが、波みたいに僕を押し流す。

 ボレロ、そう、ボレロだ。ボレロが厳かに流れ、倉庫の住人達は幸せそうに聞き入っている。なのに僕は、また極寒の白い世界へと、追いやられようとしていた。

 高木と目が合う。

「ん?どうしたんだ?」と、いう問いに、「知らないよ!」としか返せなかった。

 ガラッと、引き戸が開かれる。晴れていてくれという、淡い願いは、叶わなかった。白く、濃く、深い霧の中に、放り出された。

 

 振り向くと、もう扉は無い。ここに導いてくれた灯も、消えていた。もう戻る事の無いと思っていた、標も無い真っ白い世界が、僕を包み込む。さっきまであった人の温もりが、余計に孤独を引き立てて際立たせる。わずかな傷まで、指で撫でる様に感じとれる程に。

「あ、あの」

 矢庭の事に驚いて、「わっ」と、間抜けな声が抑えられない。たとえ、この深い霧の中でも、声の主には筒抜けだった。

「ごめんなさい、おどろかせちゃって」

 長老の取り巻きの一人。背は僕よりも更に低く、大きな眼鏡と広いおでこ、二つの三つ編みが触覚みたいで、まるで蟻の様に見えた。きっと、僕を押し出す時に巻き添になったんだろう。

 制服だけで寒そうに、少し震えている。

 手に持っていたマフラーを掛けてあげた。

「あ、あざしゅ・・・」

 と、彼女はお礼を言いながら俯く。長老のだけど。

「じゃ、戻れるといいね」

 別れを告げ、当てもなく歩き出そうした刹那、彼女が僕の着ている高木のベンチコートを掴む。

「ま、まって、一人、こわいっス」

 一瞬の静寂、いや、お前はそこに僕を放り出した一人だろ、という恨み言は、一旦飲み込んだ。きっと彼女にとって、僕は藁だ。藁みたいな僕には、お似合いの役回りかもしれない。後輩相手に、精いっぱいの愛嬌を詰め込む。

「じゃあ、人がいる所まで一緒に行こうか」

 彼女は、二回頷いた。踵を返して歩き出そうとすると、また彼女が呼び止める。

「あ、あの」

「今度はどうしたの?」

「このまま歩き続けたら離れ離れになる気がして」

 僕は手を差し出す。

「じゃあ手を繋ごうか」

 彼女は首を振る。

「いや、手は、ちょっと、恥ずかしいっス」

 僕は手を伸ばす。

「じゃあ、これで」

 彼女の首に巻かれた黒いマフラー。その先を掴んだ。

 一人きりの静寂よりも、二人きりの静寂の方がずっと辛い。彼女にマフラーを巻くときに見た、襟に付いた金色の校章を思い出した。

「そういえば、君、特進クラスなんだね、すごいね」

 うちの学校は、部活動には力を入れているけれど、それほど偏差値の高い学校ではない。だから、特別優秀な生徒は特進科を設けて、別で授業を受けさせている。入れる生徒は進学科の中でも有名大学にA判定を取れるような数人だけだ。

「えへへ、私、勉強だけは得意で。でも他の事は苦手で、だからインターハイに出ている先輩の方が凄いっス」

 県予選で敗れた野球部は甲子園に出ていない。それでもインハイで上位に入った僕よりも、甲子園に行けなかった野球部のエースの方が校内での知名度は遥かに上だ。だから、僕の事を知っているのなんて、陸上部員だけだと思っていた。

「そんなことないよ。走ること以外は苦手」

 彼女が居なくなっていないか、時々心配になって振り返る。掴んだマフラーの先には彼女がニコニコと笑って付いて来ていた。犬の散歩みたいだ。

「そういえば、長老が探していた人物だって断定していたのって」

 ふと浮かんだ疑問。

「はい、私が告げ口しました」

 それなら、更に疑問が浮かぶ。

「じゃあ、あの時、なんで長老は顔を覗き込んだんだろ」

「演出じゃないっすかね。そういうの好きなんで。長老」

 長老の趣向に付き合わされて、僕はリンゴを食べていないのに楽園を追い出されてしまった。だとすれば、長老は蛇だ。だからと言って惆悵している暇は無い。今は可愛い後輩のおもりが先だから。

「君はその人の事を見た?」

「その人って、先輩を探している人っスか?私が来る前だったので見て無いっス。あ、でも、長老は先輩のことを知らなかったみたいなので、その人が架空の人物ってことは無いと思います」

 先生やコーチ、部員なら、もっとマシな言付けを頼むだろう。霧の中で僕を待つ人物なんて、見当も付かない。

 物思いに耽けながら霧を進む。二人なら足取りも軽い。

「あの、先輩」

 蟻みたいな後輩が、急に立ち止まる。リード代わりのマフラーが張り詰める。

「どうしたの?」

 その問いに、彼女は「トイレ、無いっすよね」と返す。

「ずっと我慢してたんスけど、もう限界っス・・・」

 と、両手の拳を強く握りしめている。そんな彼女に、僕は何も出来そうもない。所詮、僕は藁で、彼女を浮かせることは出来ない。いくら溺れても、縋る相手は選ばなければならない。賢い彼女は、それを察したらしい。

「先輩、ごめんなさい!」

 手に持ったマフラーを振りほどいて、彼女は霧の中へ消えて行った。彼女にとっての救いはきっと、全てを隠す、この忌々しい深い霧だから。

 

 再び訪れた白い世界での一人の静寂。不意に足元に伝わった堅い感覚。地面に目を落とすと、石畳に変わっていた。この道をたどれば、昇降口に着く。この漂流も、やっと終わる。

 強風。霧が少しだけ晴れた。枯れた噴水とその中央に設置されていたニケの像が、霧の中から現れた。その縁に座る、君がいた。

 

 凛と音が鳴った。


「君の所為なの?この霧」

 そう、突拍子もなく浮かんだ疑問が漏れ出した。君は笑う。

「そんなわけないよ」

「君だろ。待ってるって」

 君は、また笑う。

「インカレで待ってるって意味だよ」

「なんだ」

 拍子抜けして、笑みが零れた。

 君は、さえずる様に言葉を紡ぐ。

「今朝、別れた後、そのことを伝え忘れたって気付いて、学校まで追って来たんだよ。大学も分かれてしまったし、どうしても伝えたくて。だけど、そこで深い霧に飲み込まれて今まで迷ってたんだ。そしたら君が現れた。待ってるとは言ったけど、来るのが早すぎるよ」

 君の隣に座る。霧の隙間から伸びた天使のはしごが幾重にも重なる。

「せっかちなのは君だよ。どうせ毎回記録会で会うのに」

「そうかもね、僕の方が、足も速いし」

 意地悪な顔。

「そんなこと無いよ、練習では、君の記録より早い記録も出せるよ」

「僕だってそうさ」

 リンゴン、と、予鈴がなる。

 一月の霧が晴れた。


主人公はラヴェルのボレロだと勘違いしていますが、演奏されていたのはパッフェルベルのカノンです

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