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鉛の感情  作者: 鞍馬寛太
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 オレンジ色に染まる夕日が部屋全体を包み込む。窓から差し込む光はこの時間になるとやけに心を落ち着かせる。端場悠太はテーブルに突っ伏したまま爆音で垂れ流されているラジオに耳を傾けていた。

「本日、山中市にある路上で男性が何者かにより射殺される事件が起きました。殺害された男性は指定暴力団阿川組の二次団体清住会の組員であるとの情報が入っております」

 清住会。その名前が流れた瞬間悠太は体を反射的に起こした。甲斐性なしだった父親の残した莫大な借金を返済している闇金の元締めが清住会であるからだ。とは言ってもその情報は父が言っていたことで信憑性は低い。さらにそれが本当だとしても清住会の組員が一人殺されたところで悠太に残っている借金が消える訳ではないし、清住会がなくなる訳でもない。この事件が起きたところで悠太が過敏に反応するほどのことでもないのだ。しかしその無機質なニュースに悠太は耳を澄まして聞き込んでいた。もしかしたらいつも取り立てに来る連中が殺されたのではないかと案じていた。しかしその後も名前が述べられることはなく、短いニュースは終わりを迎えた。

 夜八時。裸電球に明かりを灯し、悠太は着替えを始めた。食品加工会社の清掃職員として働き始めてから早二年。日中のコンビニでレジ打ちをしていた頃よりも月収は上がった。仕事を変えたのは悠太が借金を払うことになってからである。

 父親は二年前に蒸発した。その日のことを悠太は鮮明に覚えている。


 朝目覚めると、いつもであれば新聞配達の仕事に向かっているはずの父が窓の外を上の空で見つめていた。外にはゆらりと雪の華が舞い降りている。その年初めての降雪だった。父はその小さな白い塵を一心に見つめていた。

「おはよう」

 悠太の声に父は言葉を返さなかった。悠太もそれ以上言葉を続けはしなかった。不審に思いながらも、父と会話を交わす機会の少なかった悠太は、特に気にもせず棚に入っている魚肉ソーセージを口に含んだ。

 足裏から背筋を凍らせるような冷気を感じる。これから本格的な冬を迎えるというのに家にはストーブもない。借金を返すだけで手いっぱいの家庭にはそんな便利な道具などある訳がない。

「雪が降ってるぞ」

 父は消え入りそうな声で言った。廊下から父の姿を確認するとその声は窓に向けて発せられていた。

「そうだね」

 悠太は抑揚なく返し、茶の間にある箪笥からコンビニの制服を取り出した。

「仕事に行くのか?」

「ああ」

 寒空の中でも元気に鳴くカラスの声が部屋の中に届いていた。それ以外に音はない。悠太と父の声にカラスが交わるこの部屋は環境としては外にいることと同等に思えた。

「じゃあ、行ってくるよ」

「ああ、気をつけてな」

 家を出るまで悠太は父の顔を見なかった。痩せて小さくなった餓鬼のような背中に扉が閉まる瞬間まで視線を向けていた。

 その日は夜間帯のバイトが急病で休んだ旨を聞き、いつも夕方の五時に終わる仕事を九時まで行った。家に帰ったところで騒々しい父の鼾を聞きながら布団に篭るしかない。バイトが来ないことは悠太にとって良い知らせであった。

「端場くん、今日は助かったよ。これ少ないけどもらってよ」

 店長が差し出したのは薄い茶封筒だった。そこに残業分の賃金が入っているのかと思ったが、それとは別に店長が気持ちで悠太に手渡したものだった。

「いや、受け取れませんよ。残業代だけで結構ですから」

「いやいや、そう言わずにさ」

 店長は悠太の手に茶封筒を無理やり握らせた。仕方なく悠太はそれを受け取り、頭を下げた。

 茶封筒の中には五千円札が一枚入っていた。気持ちという割には金額が高い。悠太は驚きを隠せなかった。

 父親の痩せ細った背中を思い出す。今日くらいは父親にいいものを食べさせよう。そう思い、閉店間際のスーパーで売れ残り、安くなっている幕の内弁当を二つ買う。

 その弁当を帰りの道中で冷めないように電子レンジで温める。温めた弁当は容器が変形するほど熱くなり、ご飯の上に乗せられた海苔は小さくなっていた。それでも久しぶりに見る真面な食べ物は美味そうだった。悠太は自然と落ちる涎も気にならなかった。

 雪は朝よりも大きな粒となり、せっかく余計に温めてきた弁当を白く染めていた。悠太は小走りで家へと向かった。父が腹をすかせて待っているはずの家に。

 アパートに着くと鍵がかかっていた。父が家にいる際、鍵はかけない。悠太は不安を覚えながら、財布から合鍵を出し静かにドアノブを引いた。電気もついていない室内には滞留する冷気だけが蔓延っていた。父が朝雪を眺めていた窓から月に反射した白い雪が穏やかな光を送る。人の気配はなかった。

 湿気の溜まったテーブルの上に弁当を置こうとしたとき、何かに手がぶつかった。驚いた悠太は慌てて豆電球に手を伸ばす。オレンジ色の暖かい光が部屋を包んだ瞬間に小さな真新しいラジオが目に入った。その横には日焼けして変色したメモ用紙。父の汚い蚯蚓のような筆跡が残っていた。

 すまない。たったそれだけの文字で悠太は父が借金を残して逃げたことを察した。新しいラジオを置き土産にして。

 不思議と父に対する怒りは湧かなかった。むしろ、蒸発してくれたことで父を気遣う生活が終わりを告げ、一人で自由に生きていく道ができたと楽観的に物事を捉えていた。生活が大きく変わる訳じゃない。悠太は自分の稼ぎを全て父に預けていた。きっとそこから借金を返済していたはずである。

 父の収入は知らなかったが、稼いでいないことは察していた。今まで父が悠太の金を使って返済していたものを自分が変わらず清算していくだけ。大きな変化など、何もなかった。



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