夜明け前の宵
「ご苦労様」
夜も更け、少し肌寒くなったころに、暗闇の中で向かいにいる初老の男に声を掛けるものがいた。蠟燭の火がゆらゆらと揺れ、初老の男の顔をうっすらと映し出す。そこに跪いていたのは、武術大会で国王の側に控えていた、ランド候その人であった。労いの言葉にもランド候は表情一つ変えずに言った。
「いえ、何も起こらなかったので」
「謙遜するなよ。あらかじめ不穏分子は潰したんだろう?」
「それでも、幾人か鼠に入れこまれました」
「ああ、それは気にするな。私が入れたんだ」
「なんと?」
ランド候は驚愕した。
「なぜそのようなことを?」
ランド候の対面にいて、座して脚を組み、その白魚のような指を顎に当てるものが、優美に、かつ妖艶に笑う。
「彼の人にドイエベルンへ行ってもらうためさ。内戦に加わってほしくてね」
「確かに、お望み通りそちらへ向かったようですが、いささか危険なのでは?」
「何が?」
「彼の人は百年に一人の傑物。物の分からぬ猪が玉座にいればこそ、やりやすくもありますが、彼の人が舞い戻ってしまうと......」
「だからだよ。近々スーニャとインペリアルが攻めてくる」
「なんと!? 同盟ですか? 確かに、今回その手のものが多かったですが」
「ああ、王への牽制だったのだろうが逆効果だったようだな。各50万の大軍でこちらから攻め入ることが決定したよ」
「ううむ......しかし、なればこそ、彼の人を戻すのはまずかったのではないですか? この機に乗じて......」
「いや、彼の人だからこそ、こちらへ安易に攻め入ることがなくなるというのが、私と『謀国姫』の結論だ。むしろあの猪のままだとこちらへ攻めてきそうだ」
「なるほど。内戦を長引かせて、こちらへの侵攻を遅らせようと?」
「いや、逆さ。我らは内戦を早めたんだ」
「どういうことですかな?」
「それくらい、彼の人はすさまじいということさ。我らが王を食ってしまうくらいにね。だからこそ、ウルライヒ将軍の守るエトワール門を攻めるのは愚かだということがわかる」
「......なるほど。'ポートワール'ですか?」
「そういうことだ。我らが決戦の地はそこ。今はまだその準備の段階だ」
「慧眼恐れ入ります。では我らもそこに準備をするため、今から手勢を潜り込ませておきまする」
「委細任せた。そういえば?」
座す人は何かを思いついたと言わんばかりに話題を変えた。
「ランド候は武術大会の優勝者を見たんだったな。どうであった?」
「どうというと?」
「『剣姫』殿を打ち破ったものだろう? どのようなものか気になるじゃないか? それに彼の人のお仲間のようだしな」
「率直に言えば、危険人物のようには感じられませんでした。覇気や殺気はなく、危険な思想家でもなければ、戦場の雄でもなく、純朴な青年というイメージでしたな」
「ほう? 疑わしきはすべて罰すのランド候が珍しいな」
「からかわんでください。まあ、武の腕は立つようですが、取り立てて警戒する必要はないかと。むしろ、今回解放された、モニカ王国の王女の方がはるかに危険かと存じます」
「ああ、あれか」
「解放してよかったのですかな? ドイエベルンに逃げ込まれると少々厄介かもしれませんが」
「ああ、彼女から食えるものはすべて食らいつくしたからな。問題ない」
「でしたら、なおのこと、奴隷のまま死んでもらった方が......」
「いや、王もそこは解放の機をうかがっていたさ。奴隷のまま弑殺すれば、外聞悪く、不穏分子が残ることになる。それよりも、戦場で散ってもらった方が、やりやすいのさ」
「なるほど......」
ランド候はまだ言いたいこともあるようだったが、ひとまず納得したようだった。
「かしこまりました。では私はこれで」
それで、すっと立ち上がって下がっていく。そして、座す人は外を見た。もうすぐ夜が明けようというのか、東の空がうっすらと白くなっている。
「ようやく、役者が全員ステージに上がれるかな? 楽しみだ。かつて遊べなかった分まで、今回は全力で楽しみたいものだ」
そう言って、座す人は窓の外を見る。まるで遠くにいる誰かに思いを馳せるように。




