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嵐はいつもガラスの向こう  作者: 入江晶
1.日常から抜け出た先で
8/43

1-8.

 振り返ると、ほとんど何も見えなかった。ただ腕や足の規則的な、同時にそれぞれ周期の違う動きと、それが上げる水しぶきばかり。しかしその中で垣間見える、時々水の上に顔を出す、そしてまた落とされる、ほとんど僕の目の高さと同じ位置で律動するその姿、いろんな前景の重ね描かれた白い影は、不思議なほどくっきりした輪郭を持っていた。目が見た不完全な断片というかにじんだ曖昧さも、心の作用が写し取った一枚の光景の素材となって、そしてまた目で見たような形になり、今では目にした瞬間に曖昧さは洗い流されて、僕はその輪郭やそれが描く周期があの流線形を外挿したところにあるのだと、ほとんど直に目が見ているみたいだった。心の作用が目の見たものをいちいち頭の中で変換しているのではなく、どう感じればいいのか、そのために目や頭がどう働けばいいのかを導いて、心の領域に同化させてしまったのかもしれない。

 ほとんど呆然としていた僕に、おずおずと、脇にどいていた理性が囁いて、少し待ってあの人が向こう側のコースの端から五メートルの目印(コースの上にぶら下げて渡された、交互に黄色と青の三角形の飾り並べたもの)あたりまで行ったら続こう、と告げた。僕はそれに頷いた。そして、何も待たずにすぐに顔を潜らせ、壁を蹴り飛ばした。

 呆れる自分の利口さの冷たい視線を感じながら、僕は平泳ぎで進んでいった。なぜなら、あまりスピードが出ず、しかもその調節がしやすくて、真正面を向くことができる泳ぎ方だからだ。もっとも、それは平泳ぎの姿勢としては完全に間違っているけれど。しかしこのときの僕にとっては、そんな行儀の良さなんていらなかった。必要なのはちょうどいい位置に陣取ることだけ。

 こんな馬鹿みたいな、いろんな意味で危うい泳ぎ方をしたことはないし、後から思わなければ分からないだろうけれど、こんなみっともなさに気づけもしなかったなんて、どうかしていたんじゃないだろうか。いやきっと、間違いなくどうかしていたんだと思う。

 僕は水面の下でそれを追いかけた。呼吸、そしてそのために顔を上げるのは一瞬で済ませた。僕は溺れた経験がないから(水泳を習い始めたのが早かったから、忘れてしまっただけなのかもしれない)溺れるというのがどういうことなのか分からないのだけれど、もし水の中に落ち込んでどうにもならなくなるのを恐れてパニックなるという状態なのであれば、僕は正反対の状態になっていた。つまり、呼吸をするために顔を上げてしまったら、その間に直前まであったものが消えてなくなってしまうんじゃないかと恐れて、大急ぎで息を吸い込んだ。そして、全身は完璧に思った通りに動いた。だけど同時に、あまりにも多くの抵抗だとか反作用を感じて、それをはねのけられもせず、どうやって打ち勝てばいいのか、それもできないならどうやってなだめて折り合いをつければいいのか、考えまくっていた。水の抵抗もその一つだけれど、たいしたことはない。もっと重要なのは、目をなるべく近づけるための位置というか速度の調整であり、同時に近づきすぎるわけにも行かないから適度な距離感を保たなければならず、しかも、それを全部、平泳ぎという緩急のある泳法で、僕が得られるものを最大化することを求めていた。できるわけがないけれど、まるで夢の中で殺人犯になって、自分の犯罪の証拠を隠そうととんでもない悪戦苦闘を繰り広げるみたいに、それまでの背景とか文脈から、まるでそんなものが存在しないかのように切り離されて、ただその瞬間、目の前に、文字通り目の前にあるものを見るというか、どうにかして見ようと必死になることだけが全てだった。で、その結果は、水面の下の薄暗い中で吹雪みたいに舞い踊る泡と、その向こう側に辛うじて、ほとんどまっすぐに伸びた白い影が目の前の空間をかき分ける様子があるというものだった。

 僕はそれを追い求めた。正確には、それを得られるようにするためにできるだけのことをした。可能な限り近づき、しかし、たまたま同じコースを同じ方向に泳いでいるだけのことだと言い張れるような距離を保って。まるで悪事がばれないようごまかそうと、あえて少しばかりのヘマをやらかすみたいに。最近読んだ小説にあった、窓から部屋の中を覗き見るときに、わざとそうしているのではないんだと言い訳をするために砂利で足音を立てるのとほとんど同じだった。しかしそこで抱いていた意図というか、狙いの部分では、僕の方が遙かに浅ましいと思う。もっともこれに気づいたのは、二十メートルほどをそんな調子で泳ぎ、僕の脇を折り返していくその姿を横目で見たときになってやっとだった。その通り抜けていく正反対に向かう力を、押しのけられた水の波という形で直接感じて、やっと。何というか、実は自分の思っていたよりも、その人の遙かに近いところに僕は居続けようとしていたのかもしれないと、そこで突然気づいたのだった。そして、手足を動かす気をなくしてしまい、慣性に任せて、壁にゆっくりと頭をぶつけた。またしてもあまりにも恥ずかしくて、そうするしかなかった。

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