5-1.
――良子さん。
僕が名前を呼ぶと、帰り道を歩いていたその子は振り返った。
肩から斜めに鞄が提げられ、大きな襟には青いラインが入っている。顎のあたりまでで切りそろえられたまっすぐな髪、その下に覗く細い首筋。たぶん僕の声で体がほんの少しだけ震えるように反応して、首と襟の境目が見えなくなり、代わりに、丸い大きな目をした顔が僕に向かって現れる。
――ああ、唯瞳くん。
少しきょとんとした様子を見せてから少しだけ明るく表情を変えて、その子は言った。僕よりもいくらか背が低いから、見上げながら。僕が歩み寄るにつれて、それがはっきりしていった。少なくとも、僕の目には。
――どうしたの? っていうか、久しぶりだね。
確かに久しぶりだった。ほとんど「ん」にしか聞こえない「の」の発音も、笑おうとして途中で止めてしまったような表情も、表情に比べてあまり形の変わらない目も。
いや久しぶりどころか、初めてと言ってもいいくらいに思えた。声は間違いなく聞いたことがある、というか聞き慣れていたはずなのに。一番新しい経験から、二ヶ月ほどの隔たりがあったとしても。中学校の制服姿を正面から見るのは実際に初めてでその印象は未経験だったけれど、その子だと見分けられなかったわけでもないのに。
急に不安になってきた僕は、続く言葉を発することができなかった。間違いなく、その子は、長い間親しくしてきた女の子で、あえて名字ではなく名前で呼ぶ相手だった。
その子の笑顔が消えて、不思議そうな、あるいは怪訝そうな様子の無表情になった。僕のせいで始まった沈黙が、耳に痛かった。僕が何も言えない間、その子はほんの少しだけ顔をかしげて、次に目線を僕から外して左右にきょろきょろとさせ、そして、いくらか上目遣いにまた僕を見た。
目や耳が、その子のことを教えてくれている。頭もそれを理解している。でも、胸の奥は、時間的な距離や記憶の枠からのずれが、まるで現実感のある壁か裂け目のように感じてしまっていた。それはさながら――
――唯瞳くん、空飛べる道具を発明した職人さんみたいだよ。その人、それで飛ぶのを見せびらかそうとしてたんだけど、やっぱり自信がなくて、塔から飛び立とうとしても何回もぐらぐらするばっかりで踏み出せない、そんな感じ。
言い終えると、その子ははっきりと笑った。それは、小さくても、自分の言いたい、好きなことを、聞いて分かって理解する人に言えたという、達成感が作ったものだったと思う。
ああ確かにそうだった、やっぱりこういう子だった、と、まるで答え合わせでもしたような気分になった。十分な根拠を持って出した答えなのにどうしても不安が消えてくれない、そして回答を示されてようやくほっとする、ちょうどそんな風に、やっと僕は確信できていた。こんなことを僕にだけ言う子。もう壁も消えている。
――そんな人いたんだ?
――いたよ。飛べなかったから落ちて死んじゃったけど。
そして、時折僕をぎょっとさせて、それでも当人は全く平気というか何も気づいていないし気にしていない。普段から、いつも。
――ああ、あの……太陽に近づきすぎて落っこちたって話?
――違う違う、もっと最近のこと。白黒だけど映像もあって……
その子が気を遣うのはただ一つ、何を僕に話すかということ。あの口癖というか、話し癖とでも言ったらいいのか、とにかくことあるごとに使う、いや作る、たとえ話。長くて、妙に細かく具体的な。それを話すのは僕に対してだけだった。僕は、その子が魅了されて自分でも使いたがるまでの過程を知っていたから、その原因になった一冊、正確には上下巻に分かれていたから二冊の本を僕も読んだから、そして、だからこそきちんと受け取ってあげられるから。そういう相手になれるのは僕だけだった。
――何で知ってるの、そんなの。
――小説に出てきたから。ぜーんぶ解説に書いてあった。探したら、記録映画みたいなのもすぐ見つかったし。
並んで、僕たちは歩き始めた。本当はずっと正面からその子の姿を見ていたかったけれど、できるわけがない。そういう気持ちがあったからか、違和感というか疑いというか、とにかくそんな引っかかるような感じがまだ実はいくらか残っていたからか、僕はまだ緊張を引きずっていた。
ずっと繰り返してきたこと、数字で言えば一年近くは。またそうするだけ、戻るだけだと思った、いや、そう自分に言い聞かせた。その証拠に、最初に僕が見たほんのわずかな驚きの表情以外に、何も変わりはないじゃないか、と。僕たちだけが共有できる、少なくとも周りの身近な誰ともできない話をする。あのたとえ話もその一つ。僕だけがその相手になれたし、その子だけが、僕がその話を聞かせてもらえる相手だった。そういうところに舞い戻るだけ、そのはずだった。その子だってすんなりとそうしているし何も気にしてはいないんだから。
ところが、そうでもなかったらしい。
――何かあったの?
――いや、別に……
――私と帰るの、もうやめたのかと思ってた。
――そんなこと、ないけど……タイミングっていうか、なんか……声かけたり、しづらくて。
――ふうん……分かんなかった。じゃあ、これから、また一緒に帰ろうよ。
――う、うん。そうしたい。