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3-3.

 まさにこの瞬間に自分が感じていることの何もかもを意識してしまい、ほとんど体の動かし方を忘れたみたいで、まるで、ごく当たり前に使っていた言葉の意味を問われて、初めてその意味なんて何も知らなかったと気づくように、僕は思考も体も、ぎこちなくしか動かせなくなってしまった。それでもまっすぐに進んでいけたのは、何年も積み重ねた記憶が体の中にあったからだろう。そんな体、僕の心配とかと関係なしに行動してくれる体に、やれやれ何をやっているんだとあきれられているような気分だった。

 そして思考が、この慣れ親しんだ静かな場所ではどうすればいいのか、ようやくその感覚を探り当てたとき、体を押す小さな波を感じ取った。それだけで全部分かってしまう。というか、むしろ僕にはそれだけが全てだった。それだけで十分だった。

 僕は彼女とすれ違った。ああ、きっと、そのために僕はクロールで泳いでいたのだろう。そうするべきだって、最初から分かっていたのだった。この空間、いや、水間とでも言うのだろうか、とにかく、狭い幅に区切られた二十五メートルの長さのこの場所を彼女と分かち合うために必要なのだから。そうできることを待ち望んでいた。根拠も何もなかったのに。あったのは、理由も分からない期待だけ。

 端に着いた。泳ぎに関しては、僕は落ち着いていた。端までの距離をちゃんと意識して、手を前に下ろすタイミングをちゃんと調整し、ちゃんとスピードを緩めて、最後は力を使わずに慣性だけにして。しかし、立って水から出した顔は信じられないほど熱く、胸の痛みは、運動のせいなのかそれ以外に理由があるのか、区別できなかった。実現するなんて考えもしなかった夢、ありそうもないけれど、もしそうなればあまりにも大きな喜びに出会えるという憧れ、そんなものと直面しているような、そうなったりでもしなければ、こんなことにはならないだろう。まさに今この瞬間、実際にそうだったのだと、僕は激しい呼吸を何度も重ねてから、やっと気づいた。

 息も絶え絶えに、僕はコースを往復した。何度も、というか、毎回必ず、中間地点あたりで彼女とすれ違いながら。よく息と体力が続いたと思う。

 彼女の存在を、直接的に見たり感じたりしてもしなくても、ずっと意識していた。まるでそれが目標地点、泳ぐ先の目印であるかのように。

 でも、僕が触れていたのは水であって、見ていたのは青白い水の向こうの床や壁であって、聞いていたのはその中の明瞭な静けさであって、その外のうつろな騒がしさであって、その境目の波だった。吐いた息や下ろした手に巻き込まれた空気が作る泡が舞い散り、光は細切れになって揺れる。僕の身を置いていたところは、こんなものだけで作られていた。

 僕は、彼女を見ようとしたりしなかった。水の中、床に向いた目の視界の隅に入ったとしても、それ以上追いかけなかった。その程度で十分だった。何を見るかというよりも、見てそう分かる形状だとか水着と足の色のコントラストとか、そういうものがそこにあると意識すること、見た時の印象を初めて感じ取った時の心の傾きの再現、そこで現れる安心感の方を、そういうものだけを、むしろ求めていたような気がする。

 位置関係だけでなく、そういう感覚の距離も、ずっと、あるところに留めていた。はっきりと言葉とかになっていたわけではないけれど、そんな風にしなければならないと思っていたのかもしれない。第一、他にどうしようもないんじゃないだろうか。月と地球も、互いに回ってちょうどいいところに落ち着いているのだし。それぞれ、中心に置かれているものは違うけれど。

 彼女が立ち止まった時には、僕もそれに合わせた。そういう休憩がないと、とても続けられなかっただろう。できればもう少し休ませてほしいと思いながら、でも彼女のペースを乱すわけにもいかなかった。何か彼女に伝えたりしたわけではなかったけれど。僕はただ、それまで泳いでいたコースで、そのまま泳ぎ続けただけだった。もちろん同じコースで泳ぐ人、彼女に気を遣いながらではあった。でもそれはつまり、僕の存在を向こうが意識しなくていいようにするということだった。何の干渉もなく、そこに来た目的を果たせるように、僕にできる限り、彼女を尊重したつもりだった。

 ところで、そんな僕の目的とは何だったのだろう? 期待することが自分の経験の中から抽出した場面であったのなら、この時点でそれは果たされていた。同じコースで、水の感触や温度や音や色に包まれながら、彼女、あの輪郭、あの流線形がそこを訪れたときに。

 僕は、自分が望んでいたのはそういうことだと思っていた。きっと、こうしてプールで泳いでいる間に、あの最初の日の経験を呼び起こしてくれるようなものが現れてくれることなのだと。ところが、確かに彼女が実際にそこに来てくれて、泳ぐ場所を共有するという間違いなく待ち望んでいたことが実現しても、僕の期待は満ち足りないどころか、それが当然とばかりに、次に向かい始めていた。何が「次」なのかを、僕に教えないまま。

 だからやっぱりどうしようもなく、僕は泳ぎ続けるしかなかった。いくら疲れても、息苦しさのせいで気持ちのいい水の中より水面の上の方が恋しくなっても。彼女とすれ違うたびに、いったいどうすればいいのかを考えた。この先とは何だろう、これ以上何を望んでいるんだろう、こんなに嬉しいのに――息が切れて胸が痛んでまともに感じられてはいなかったにしても――、と。

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