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嵐はいつもガラスの向こう  作者: 入江晶
1.日常から抜け出た先で
2/43

1-2.

 何か、妙に緊張していた。それは期待があまりにももろいというか根拠を持たずはっきりしないからでもあり、行ったことのない場所での時間を自分一人で処理しないといけないのだという不安のせいでもある。僕がこんなに心のざわつきを感じていたのは、たぶん僕が変だからだ。人によっては、そしてたぶん多くの人は、平気なのだと思う。

 だから、車を降りて、母さんに約二時間後の迎えの時刻を確認して別れ、まずどこから施設に入ればいいのか戸惑い、利用券を買う場所が思ったよりもあっさり見つかってほっとして、しかしどう歩けばプールにたどり着けるのかが分からず、一度見当違いの方向を目指してしまい行きつ戻りつするハメになるなんて、きっと僕ぐらいなのだろう。おかげでいろいろと見落としていたし、半券を切り取った受付の人が僕に何を告げたのかも記憶できなかった。

 いくらかの先客がいることは靴棚の履き物が示していたけれど、入った更衣室には誰もいなかった。混雑に出くわさなかったことに安堵し、水色の壁に囲まれて、床には緑色の、名前も分からない細かな格子状のプラスチック(スノコの変形したもの?)が敷かれている中で、僕は着替える。誰の目もないのに、自分の腰回りやその下が空気に触れていくらかひんやりすると、服を脱いで開放された以上になんだかとても恥ずかしく感じるのは、つまりは経験というか習慣のせいだ。だから、ボタン付きで腰に巻いてスカートみたいな形にできるバスタオルの下で一気に水着を足の付け根まで、そしてその上までぐいっと引っ張り上げてから、ロッカーに鍵をかけて裸足でぺたぺた音を立てながら通路を歩き、浴びせられたシャワーの冷たさにびっくりするまでドキドキするような恥ずかしさが続いていたとしても、別におかしなことは何もないんだろう。

 曖昧だった不安は、思っていたよりも建物や更衣室が古くさかったせいでいくらか形をはっきりとさせ始めていたけど、視界が開けると、それも一気に塗り替えられた。自分が全く新しいところに踏み入れたという感慨と、期待が叶えられたという嬉しさで。

 通っていたスイミングスクールに比べると、そこはもっとシンプルというか殺風景だった。それに、プールサイドのスペースがほとんどなかったせいで、コースの長さや数が同じでも、何だかずいぶん狭く見えた。しかし、そこで泳いでいたり端のコースで歩いたりしている人の数は少なくて、その開放感は全く経験がないほどだった。そして同時に、足下から聞こえる様々な形の水音や、時々発される誰かの声、そんな音が広く高い空間の中で何度も跳ね返って響き、いくらかひんやりと感じられる空気は、慣れ親しんだものでもあった。ほんの数ヶ月かそこらしか時間を隔てていないのに、そういうものがとても懐かしくて、僕はほとんど、感動したと言っていいくらいだった。

 いや、本当に感動していたのだろう。初めて来た場所なのによく知っているものがあって、僕はそれに再会したのだった。同じような、ではなく、同じものだ。確かに違っている部分はたくさんあるけれど、多少の程度の差や、単に見方が異なるからでしかない。そこは僕が思いっきり体を動かして、喜んで息を切らせて、くたくたになるまで体のアクセルを踏みっぱなしでいられる場所。しかも今は、急かされたりもせず、何もかも自由にできる。

 一気に水に飛び込んでしまいたくなるような胸の高鳴りをどうにか押さえつけながら、スクールでは先生のかけ声に合わせてやっていた準備運動を、順番も回数もいい加減に再現した。最初から体は軽いし腕も足もぐるぐる回るけれど、必要なことらしいので泳ぐときには絶対に欠かさないようにしている。ポロシャツにハーフパンツ姿の監視員の人の姿もあったことだし。でもそこには、僕を縛るような視線も指図もないのだった。

 ずっと静かに続いていた強くて速い鼓動を意識しながら、誰もいなかった端のコースに入ることに決めた。膝を折り曲げてしゃがみ込んで、両手をその脇につく。全然日焼けしていない右足を差し出して、ぴんと伸ばした爪先を、水面にゆっくりと差し込んだ。少しだけ触れて感じていた、意外と冷たい水の温度に身構えながら。膝まで水の中に入れると、直に伝わる水の感触と冷たさは意外なほど心地よく感じられた。だから抵抗はもうほとんどなくて、左足も同じように水面に落とし、腰掛けるような体勢になると、両手で体を支えながら、足から順番に、しかし一気に、水の中に体を放り込んだ。

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