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嵐はいつもガラスの向こう  作者: 入江晶
1.日常から抜け出た先で
11/43

1-11.

 腰回りのゴムに指をかけて引っ張ると、覆いから解放された皮膚が水や空気と直に接して、その直接的な感触にはびっくりさせられ、なんだか恥ずかしくなるくらいだった。しかしどこか、いやどこかと言うか胸の奥あたりが締め付けられるような、何かのしずくが流れ落ちるような、冷たくて同時に心の内側に差し込むような感覚に自分が浸りきっているのを見つけ、そこでようやく、ぐらぐら揺れたりぼんやりと曖昧だったりした気持ちが、ちゃんと本来のところに収まったような気がした。そして、お腹から足の間に向けて水着を開いてシャワーの生ぬるい水を流し込んでいるという自分の体勢にふと気づき、恐る恐る背後を振り向かなければならなかった。幸いそこには誰もいなくて、クリーム色と純白で格子模様が描かれているのが見えただけだった。安心した僕は、またしばらく水着を引っ張った体勢のままになった。こうするのは、あのほんのり薬臭い、今浴びているのよりもずっと冷たかった水を洗い落とすために必要なんだと、心の中で言い訳を繰り返しながら。もちろんそこにそれ以外の理由があったのは、否定しようもない。開放感、直接的で滑らかな流れの感触、胸の奥の冷たさ、等。

 不意に彼女の顔が頭に浮かんで、息が苦しくなるほど後ろめたさが強くなった。よく見てもいなかったのに、記憶には妙にはっきりと残っている、そこにいることを意識してしまう気持ちを必死でなだめなければいけないくらいに。

 そんな気持ちは着替えを終えるまでずっと続いていて、下着とズボンを履いてようやく安心するような有様だった。バスタオルのスカートの下で裸になって、今度は空気の感触だけが濡れた肌を撫でると、誰もいない更衣室で、また僕は恥ずかしさを胸に抱えてしまっていた。服を全部着ると、なんだか、舞台とか戦場とかそういう遠いところから日常に帰ってきたみたいで、自分でもなぜこんなに胸の痛みというか疼きを引きずっているのかよく分からないまま、濡れた床のせいで靴下を冷たくしてしまったりしながら、更衣室を出た。

 靴を履き替えたところで、自動販売機の向こうのソファーに、もう迎えに来ていた母さんが座っているのを見つけたけれど、受付の人に呼び止められた。入場券の有効な時間が決まっているからそれを確認してもらわないといけなかったのだけれど、最初どういうことなのか全く分からなかったので、ひどくあたふたとするハメになった。いくら受付の人、僕に呼びかけた人が感じよく振舞っていたとしても。それは間違いなく必要なことだったし、僕もそういうことがあるのだと分かっていたはずだった。入るときにも確認されたに違いないのだから。

 しかし何というか、僕の身に起きることの一つ一つが、妙に扱いにくいものに感じられてしまっていた。まるで、この空気の中、どの音もあまりにも騒がしく、僕の意識とか心の全てで向き合わなければならないというこの空気の中で過ごすのが、全く経験のない初めてのことであるみたいに。確かに、こんな風に自分で入場券のやり取りをするのは初めてだったし、プールに向かうまでの更衣室や通路にほとんど人がいないというのも初めてだった。以前遊びに連れて行ってもらったプールは、もっと大きく、螺旋を描く滑り台や作り物の滝、波の打ち寄せる海岸(もちろんこれも、その両方が作り物)があったりして、いつも人だらけだった。そんな場所では全く感じもしなかった水の温度だとか静かさだとか水面の上の静かな騒がしさだとか、どうやら初めて経験するそういうものの中でずっと過ごしていたせいで、そしてそれをあまりにも強く純粋なものとして感じていたせいで、どうやら僕の感覚はずっと生きていた空気の中の世界から、いくらかずれてしまっているらしかった。そしてそれを、いつものところに合わせるために妙に苦労している、まるで、ホテルの部屋によく置いてあるパズルみたいに――いろいろな形に次々組み替えていくのに夢中になっていると、自由自在に形は変えられるのに最初の形には全然戻せなくて、ようやくできあがっても、こんな形だったとはなかなか受け入れられない、そんな風に。

 どこかぼんやりというか曖昧に落ち着かず、歩くだけでもいくらかの困惑が胸の中に居座っていて、体育館の中の食堂で母さんと昼ご飯を食べるというこれまた初めての経験をしている間に、ようやく落ち着いた。だから、僕のおかしな気持ちはもしかしたら、単にお腹が減っていたせいだったのかもしれない。しかしそのときには、自分の空腹もほとんど感じておらず、まるで意識に引っかからなかった。家で食べるのとも給食で出るようなものとも全然違うそこのカレーはおいしかった。家や学校のよりもちょっとだけ辛くて、初めて(また!)辛くておいしいと思った、そういう体験をした。具が、特に肉が全然塊になっていないのは最初少しがっかりしたけれど意外と気にならず、福神漬けをどう食べればいいのかということの方がよっぽど気にかかった。ルーをご飯で拭き取るようにして食べていくことで皿をピカピカにするという得意技に熱中していると、お腹も、そしてたぶん心とか胸もすっかり満足感でいっぱいになった。

 言ったところで僕の感じたことは伝わらないだろうから、楽しかったとか人が少なくて存分に泳げたとかそんな感想だけを話しながら車に乗った。僕自身だけにとって楽しいと感じるということだけで全く十分だったし、もっと、その記憶だとか気持ちの記憶だとかを矯めつ眇めつ観察してみたかった。こうして落ち着いた気持ちになってその感覚から離れてみると、自分がひどく興奮というか、とにかく胸を躍らせていたのが分かって、おかしかったし、そんな気持ちになれる場所を見つけたことが嬉しかった。

 たぶんそうやって僕は余韻を感じていた。中身の詰まった買い物袋が脇に置かれた座席から窓の外を見ていると、なんだか、来たことのない場所を進んでいるような気がした。確かに来たときとは見ている向きも違うから、川の方が見えて、開けた視界の向こうには本当に行ったことのない街の景色が広がっている。空の色も青みが増して、少しだけ違っているように思う。すれ違う車の量も違う。僕には、そういう光景の中に、何か、とても強く胸を打つようなものと出くわすことを、期待していい気がした。というか、勝手に期待していた。例えばあの、すらりとした流線型の、僕と一緒にずっと泳いでいた彼女と出会うようなことを。もちろんそんなのは馬鹿げているというのは分かっていたし、見慣れた道に入って家に近づいた頃には、そういう胸の高鳴りが恥ずかしくなってきた。

 でも結局は、要するに、楽しかった。泳ぐというだけではなくて、そのために初めて行った場所で出会ったことが、経験したことが、全部。本当はもっと複雑だしいろんなものが混ざっているのだけれど、そういう言葉で表すのが一番言葉の選び方として正しいと思う。僕の気持ちについて。

 そしてこの日ほど、気持ちよく昼寝をしたことはなかった。自分の部屋に入り、ベッドに寝転がって一息つくと、眠ろうとする必要もなしにいつの間にか僕は始まりも終わりもない大冒険の真っ最中という夢の中にいて、いつの間にかそこから戻ってきた。湖の底から浮かび上がるような感覚で、輝きながら揺らめく水面がだんだんと近づいたと思うと、実は自分の部屋にいることに気づく。そうやって僕は、青く薄暗い夕方の世界に戻ってきたのだった。

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