1-1.
僕は誰なのだろう?
――唯瞳、そろそろ出るよー。
一階から呼びかけられたこの名前だけでは、何の答えにもならないんじゃないのか(不思議というか変に思えても、込められた意味があるにせよ。こんな字だと、目が一つしかないみたいだけど)。実際のところ僕が知りたいのは、「誰か」、つまり僕を僕以外の人が見てどうすれば識別できるのか、みんなという言葉で呼ばれる他人の集まりの中から探し出せるのかということではなかったりする。
そういう目的であれば、僕の名前、母さんが呼びかけた「唯瞳」という言葉は、たぶん僕一人をしか示さないだろうからむしろうってつけなのだけれど。僕が求めるのは、もっと、なんていうか、そうやって言い表せないような奥深いところ、見えにくいか見えないところの話で、例えば僕が何を持ってこの世界にやってきたのかを明らかにするようなことだ。それはもちろん、性別(男)とか、年齢(今は十二歳であと半年くらいで十三歳になる)とか、身長(百五十一センチ)や体重(四十一キロ)やテストの成績(この前の塾の毎月のテストでは教科平均で八十八点)を表す数字とか、住んでいる土地や通っている学校の名前とか、朝ご飯に食べたもの(この日は卵かけご飯)とかといったこととは、ほとんど無関係に違いない。むしろ、おかしな方向に導かれてしまうと思う。そういうものはみんな偶然によって僕の身に降りてきてそして現れたものであって、そうでない僕も、つまり偶然によらない、僕という言い方すら必要としない僕も、存在できるというかしているはずなのだから。僕が知りたいのは、偶然出くわして身についた、つまりいくらでも取り替えが効いてしまうような、ぱっと見えてしまう領域よりももっと奥深いところ、少し目をこらしたくらいでは見えないところにある、そんな僕という存在についてだった。そういう意味で、僕は誰なのだろうと考える。
こんな問いかけに、例えば誰と付き合っているのかということによって答えられると考えた人もいたみたいだ。それを通じて、現実の領域から離れ、いや超えて、自分を知るのだったと思う。この世で自分が見つけて手に入れていく個人的な(偶然の?)経験、きっと他人との「付き合い」の中で知っていくことが、幽霊のように別の領域に根差す(本来の、とでも言うべきなのかな)自分の一種の現れなのだと。つまりそれは、今の僕がこの現実、たぶんそう表現してもいい世界で認識して自分のものにしていったり、あるいはただ思い当たり再認識していくという形で生きていることが、本来の存在の影のようなものの一つなのだと見なすということだろうか。だからそういう現実の中に、影を作るものの正体が隠れているのだと。そんな理解が正しいかどうかはともかく、僕が知りたいと思うのは、いずれにしてもそういう領域での話だった。正直、方法とか理屈は何でも良かったりもするけれど。
だから、
――分かったー、すぐ行く!
と呼びかけにすぐに大声で返事をしながら、水着に水泳帽、度入りレンズのゴーグル、バスタオルを大急ぎでバッグに詰め込んでいるからと言って、僕がただ水泳に行くための準備をしているだけの子供でしかないというわけではないと思う。というか、思いたい。ただ目につきやすいところだけを見ているから、そんな風にしか見えないのだと。ああそれでも、行ったことのないプールで泳ぐことそのものや、久しぶりの――といっても、間にある時間は二ヶ月かそこらなのだけれど――水の中での感覚を自然と想像してしまい、どうしてもわくわくする。この気持ちは本物だ。全く、奥底からわいている、というか、奥底から光を放っているように思う。そして、目の前の現実、実際に触れられるものに意識が向いてしまい、それを飛び越えた場所の自分のことは頭の中から退散してしまうのだった。
初めての経験、それへの期待をしょうもないことで台無しにしないために、きっちりと荷物を確認して準備を済ませると、胸の高鳴りを邪魔するものは何もなし。プールバッグの紐を肩にかけ、僕は自分の部屋を出た。そして階段を走り降り、ビーチサンダルを足に引っかけて、雲がいくつか浮かんでいるだけの青空の下、思っていたよりもずっと温かい空気に顔と膝から下と肘から先で触れながら、玄関の前で待機していた車に飛び乗った。
車に乗せられてプールに向かうというのは、ほんの数か月前まで何年も続けてきた毎週土曜日の習慣だった。でも、確かに今日は土曜日だけれど、窓から見える景色も、時計が示す時刻も、車に乗っていることになる時間の長さも、そして何より僕が抱えている気持ちも、全然違っていた。両側に三車線ある幹線道路(と言えばいいんだろうか)を三十分ほど走っていたときに目にした、たくさんの車、途中にある行き先の分からない高速道路に向かうジャンクションの不思議な立体感やものものしい威圧感、瓦礫やスクラップやいろんな色の土が積まれた工場のような場所、トラックが前に何台も停まっているのに人は誰もいない馬鹿みたいに大きな倉庫、ピラミッドを逆さにして突き立てて支えを付けたようななんだか分からない建物、大きな駐車場にたくさんの車が止まっている入ったことのない大きな店あるいは小さな店、非現実的な女の子の絵が描かれた漫画専門の本屋の大きな看板。そういうもの、何度も習慣として出くわしてきた、だけど結局外から見かけるだけでそれ以上は何も知りようのなかったもの、だからこそそこにはどんな世界があるのだろうといつも想像して、いつの間にか僕の一部になるくらいに物語を作り上げていたようなものは、この日にはなかった。走るのは多くて二車線ずつの、身近で、自転車で通ることもある道で、初めて通った場所だったとしても、想像の余地があるような、僕の生活とかけ離れたものを見かけたりしない。自分の乗っている以外の車の音は聞こえないし、落差を感じるくらいに静かだ。そしてあるのは家ばかりで、他は知っているしよく行ったりもする店。そうでないところもたくさんあるけれど、なんていうか、僕にとっては、知っている領域の中にあるというのは同じだった。手や足が届き、入ろうと思えば、触れようと思えば、というものだったから――橋を渡るまでは。
それが初めてのことだったわけではないのに、区切りとしての印象をこんなにも強くさせられたのはなぜなのだろう? たぶん、僕の認識が的外れだったということだと思う。つまり、どうってことないと考えていたけれど、実は、ほんの少し位置関係を変えて中に実際に足を踏み入れる、そしてそこを使い、時間を過ごすというのは、意外なほど強く僕の気持ちを揺らす経験になるらしかった。