九話
故人の物を片付ける時に注意をしなければいけない事は、いくらごみに見えたとしても故人にとっては大切なものかもしれないという事である。
例えば、ぐしゃぐしゃになった折り鶴も生前にお孫さんや友人から貰ったものでキレイでなくても故人にとっては宝物であったりするし、意味を見出せない物でも何かの思い出のひとかけらである事もある。
結局のところ、大事な物であるかそうでないかは故人や家族、友人にしかわからない事である。
なので、今回のように孤独死された方の場合は作業員(私)が部屋に残された物などを見て、人柄を判断しなければいけない。そういう意味では一風変わった絵日記は故人を知るためにも重要な手掛かりになるし、会社としても大事な物を簡単に廃棄しないように作業時間を多めにとってくれているから絵日記を読み込む時間も私にはあった。
未だに故人がどんな人物であったのかはつかみきれないし、なぜこんな絵日記を残したのかもわからないが続きを見ればわかってくるのかもしれない。
「夕陽を美しいと思うのは誰もが皆、有終の美に憧れているからなのかもしれない。(スケッチブック8頁)
雨の日が増えてきた、梅雨の時期になれば屋根のないこの場所で絵を描く事も難しくなるだろう。
時が経つのは早く、いつの間にか春は終わりを告げて初夏を迎えようとしている。
その前に梅雨をどう受け止めるかは人それぞれだろう。
農家の人達からすれば雨は恵であり、そして災害でもある。
屋外スポーツをする学生からすれば、練習ができなくなり走り込みや体作りに精を出す事になるだろう。
建築業の人達には休みが増えてうれしいと思う反面、工期が迫ってきて焦り出す事にも焦りを感じるだろう。
私にしてもけやき道の絵を描くには雨をしのげるような場所が必要だし、キャンパスが濡れてしまえば絵がダメになってしまうだろう。幸いな事に私は絵の具ではなく鉛筆で描くので多少濡れても問題はないがやはり難しい問題ではある。
雨でジメジメと蒸し暑くなるこの時期は正直嫌いであるが、雨が止んだ後の世界は少し心地よく感じる。
物理的に雨が汚れを洗い流してくれている事もあるし、空気中の埃などもキレイになっているだろう。
澄んだ世界なんて言い方をすれば美しく感じるが、澄んだそばから人はまた汚してしまうのだと思うと空しくもなる。
なぜ人は汚さなければ、汚れなければ生きていけないのだろう。
人それぞれの美的感覚があり、私が美しいと感じても他の人はそう思わないかも知れない。
逆もまたしかりである。
今日は一日物思いにふけって座っているだけで絵を描く事もなかった。
芹川の向こうの琵琶湖に夕陽が沈みかけている。
曇りや雨では見る事も出来ない夕陽が沈む光景。
多くの画家や写真家がその姿を題材にするように美しい物の代表例である。
芹川の先の琵琶湖に夕陽が沈む光景を描いてから、今日一日の終わりに良い絵が描けたと思った。
ああ、夕日が美しいと思うのはきっと一日の終わりが美しいものであると思える象徴だからなのかもしれない。どんなに嫌な事があっても、楽しい事があっても一日の終わりに『今日は良い日だった』と思えたならきっと人々の心にキレイな夕日が沈んでいるのだろう。
わけのわからない事を思ったが、そんな詩人のような事を思うほどに夕陽がキレイだった。
私はあと何回このキレイな夕日を心に沈め、有終の美を飾る生き方ができるのか。
そんなお思いを抱きながら帰路に着こうとした。」