八話
「人が、好きになるということは憧れや安心そして経験から来るのではないかと思う。自分にない部分を持っている事への憧れ、フッとした瞬間にそばにある事によって得られる安心。
人はそんなものを見つけた時に『好きになる』のかもしれない。
それが物であれ、人であれ、趣味であれ変わらない。
私は美しい景色や物を描くのが好きだが、それもきっとこうありたいと願う気持ちやこれを持っていたら人生の何かが違っていたのではないかと感じているからなのかもしれない。
年はとりたくないものだと思った。若い頃ならこんなことを考える事もなかったし、直感的に行動してなぜこんな事をしているのかと考えもしなかっただろう。
年をとる事によって昔のように体が動かなくなってきたからこそ、この行動が本当に必要かを考えてしまうのかもしれない。
考えたからと言って答えは出ないし、考えている間に時間が経って何もしないままに今日が終わる事だってある。難しい取捨選択だなと思う。考えなしに行動すればそれもまた終わってから後悔するし、考えているだけで行動できなくても後悔する。
だが、それもまた私の人生であり、私を作る構成要素なのだと思う。
趣味を楽しんでいる人を見るだけでこんな難しい事を考えられるようになったのも私が今まで色々な事に悩み、そして答えを先送りにしてきたことが、今のこの瞬間に次々と答えが出てきているだけなのかもしれない。
私の人生の終わりが近づいてきているのだろうか?神様がいるのだとして私が悩んだまま死なないように少しずつ答えをくれてるのかもしれない。
くだらない事に思い至ったところで、魚を釣り上げた人が目に入った。
私は釣りをした事がないからきっと釣り上げたらガッツポーズをするなり、大きな声を出してしまうかもしれないが、釣り上げた人は至って冷静である。
あの人からすれば釣り上げる事は慣れたもので、そこまで嬉しい事でもないのかもしれない。
生き物を追う事に慣れているであろうあの人はきっと私のように絵を描いている人の難しさを理解できないだろうし、私は難しそうだなと思っているだけで本当に向こうも大変なのかもしれない。
景色も動物である、そんな事を言ったらあの人は笑うだろうか。
風が、光が、人や鳥や虫でさえも簡単に景色を変えてしまえると私が言っても通じないかもしれない。
私には私の、あの人にはあの人の考えがる。
趣味一つとっても様々な分岐によって思考も変わってくるだろう。
ただ一つ言える事は、趣味とは種類によっても違うが何かを犠牲にして成り立っている。
例えば、あの釣りをしている人は魚という資源を犠牲にして楽しみを得ているし、釣れるまでの時間も犠牲にしている。私にしても絵を描く鉛筆や紙、そして時間を費やしている。
私のように何もやる事のない人間が時間を使って何かしても娯楽として処理できるが、家族がいる人ややるべき事を抱えている人にとって時間を使う事で家族や周囲の人の信頼や愛情のようなものを犠牲にしている人だっているだろう。
何かを得るためには何かを犠牲にしなければいけない。
趣味に生きる人にとって取り戻せない時間は大いに犠牲になる可能性が高い物だと私は思った。
趣味に生きる事を理解し、許容し、そして共に楽しんでくれるような周りの人達がいる事を願って、そんな絵を描いてみた。(スケッチブック7頁)」
無趣味の私からすれば故人が何を伝えたかったのか理解できなかったが、時間を大切にしなければいけないと言っている事はわかった。働かなければ生きていけない社会だからこそ、自分が自分であり、そして心安らげる時間を設けるためにも趣味を人生に取り入れる事も大事だと思いながら、スケッチブックを見た。家族で釣りをしている風景が描かれている。
遠めの絵だから表情までは描き込まれていないが、どこか笑っているように見えた。