七話
釣りをしている人達が描かれている。
スケッチブックを開いて見たら、次の絵日記に対応するであろう絵が目に入った。
ノートの方を開くと、
『趣味とは人生を豊かにする反面、何かを犠牲に成り立っているのではないかと思う』と記されていた。
時間やお金をかけて楽しむ趣味もあれば手軽にできるものも色々あると思う。
故人は何を思ったのだろうと続きを読み進める事にした。
「趣味とは人生を豊かにする反面、何かを犠牲に成り立っているのではないかと思う(スケッチブック6
ページ)。
朗らかな春の季節が来た。私の座っているベンチから釣りを楽しむ人達が目に入るようになってきた。
私はこれまでの人生の中で釣りをした事はないし、したいと思った事もなかった。
釣りをする事を嫌っていたわけでもあえて避けてきたわけでもないが、私の人生と釣りが交わる事が今までになかったというだけの事だ。親が釣りをしていたわけでもなく、友人がしていたわけでもなく、同僚や知人にも釣りをする人がいなかったし釣りの専門誌や著書が目に留まる事もなかった。
人生が点と点を結んで道を作っていくものだとしたならば、私の歩んできた道に釣りという点が今までに一切入ってこなかったのだと思う。
そういう意味では、私には絵を描くという点が道の中にあり、今のこの状況を作り出しているのだと思う。
人にはそれぞれに趣味があると思うが、釣りを楽しむあの人達はどうやって釣りという趣味に出会ったのだろうか?
私は全くわからないがあの釣り竿はいくらするのだろうか、高い物を使えばたくさん釣れるのだろうか?
釣り竿を構えて、魚がかかるまでの間にあの人達は何を考えているのだろうか?
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが著作『善悪の彼岸』において『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』と記している。
どういう意味なのか私には真意はわからないが、私が今こうして釣り人をのぞいているのと同じように釣り人もまた私をのぞいているのかもしれない。
そしてあの人達も私に対してどうして絵を描くようになったのだろうかと考えているかもしれない。
距離としては遠いし私が一方的に見ているだけなのだろうが、それもまた私本位の見方であって向こうも本当に私を見ているかもしれない。
距離はあっても私たちは対面に立って相手を観察しあっているのかもしれないとまで考えてしまった。
それはそれで面白い。
自分さえよければいいという人を今までに何人も見てきた。私もそうだったかもしれない。
だからこそ、だれかと向き合い人を観察し、そして自分の行いを省みる事で人は成長するのではないかと思った。『人のふり見て我ふり直せ』とはよく言ったものだと思い、あの人達が釣りを楽しんでいるように私は絵を描くことを楽しんでいるのだと気づかせてもらった気がしてあの人達の釣りをしている絵を描いた。」