五話
持ち主のいなくなった物は中古品販売業者に査定してもらい、値が付く物は買い取ってもらう。
もちろんその代金は諸々の経費を引いて、国庫に帰属する事になる。
他の事業者ではあるが、着服をしたとして刑事事件になったところもある。
もちろんうちの会社はホワイト企業でクリーンな経営をしているので、この手の話とは無縁である。
値が付かない物は廃棄処分となり、故人の現金資産からその費用を払う事になるが現金資産のない方もたまにいるので、そうなってくると自治体に報告して代金の立て替え払いを依頼する事になる。
ここの老人はきれい好きだったのか家電も棚や机などもきれいな状況であったので、おおむね国庫を潤してくれるのではないかと思う。
ゴミ屋敷みたいなところもたまにあるが、そうなるとごみの廃棄から使えない物を粗大ごみとして処分したりと大変である。
私はノートの3頁目を開いた。
『生活とは捨てる事よりも大事に持っておく事なのではないかと思った。』と書かれ例によって『スケッチブック4頁』と書かれていた。私がこの前、絵をあげた次の頁の絵なのかと思ったが、それにしてもタイムリーなネタだなと思う。
私は何かわからない不思議な力によって思考を制御されているのではないかと考えて、あほらしくなって止めた。そんな小説や漫画のような事は起こりえない。自分の考えに一笑したところで続きを読んだ。
「生活とは捨てる事よりも大事に持っておく事なのではないかと思った。(スケッチ4頁)
私が毎日のように同じ場所に座り絵を描いているのを見て、挨拶してくれる人が増えてきたように思う。
一人でいる事に慣れすぎていた私は挨拶をするという事がどれほど大切なのか、だれかと話すという事が楽しい事なのかを再確認していた。おそらくこんなことを言っても誰にも共感されないかもしれない。
挨拶をするのは当たり前だという人もいるだろうし、そもそも挨拶しないなんて人もいるかもしれない。
多様化する社会は大事なものを忘れて目先だけの事にとらわれがちになってしまったのではないかと思う事がある。
そして、今日は私の指定席というべきベンチに空のペットボトルが置かれていた。
誰かが置き忘れたのか、それとも捨てていったのかはわからない。
あまり気にしていなかったが、よく見ると植込みの木の根あたりにはビニールや飲み物の容器、お菓子の袋などがパっと見てもわからないように捨てられているところがあった。
誰かが意図的にしないとこんな風に人目を隠れて捨てられる事などありはしないだろう。
なぜわざわざここに捨てなければいけないのだろう?たまたま通りかかったからだろうか?
いや、どんな理由があってもポイ捨てをしてはいけない。自分で出したごみくらい自分でごみ箱に捨てるのは当たり前の事だ。これが幼稚園や保育園に通うような小さな子供なら親がしっかりと拾うべきだ。
でも、今回は絶対に大人が捨てているだろう。しかも、やってはいけないという意識があるからこそ隠すように捨てているのだ。私は近くに捨てられていた少し大きめのビニール袋を拾い、ごみを集めていった。
数分もしないうちに袋はごみで一杯になった。持ち帰って分別しなおす事にして私はベンチに座り、ペットボトルを含めた絵を描いたのだった。
まだ、続きがありそうだったがスケッチブックを開けてみるとベンチにペットボトルが置かれた絵があった。一度目にしていたが、「なんで?」と思っただけで特に気にもとめていなかったが、そういう事かと納得した。少し作業をしてからまた読もうと思ってスケッチブックを閉じた。