四話
私が絵を描いている事自体は見ればきっとわかるだろう。
人がベンチに座り、スケッチブックと色鉛筆を持っている光景は何もない場所なら怪しく思えるが、けやき道は豊かな緑と芹川の情景が絵を描くには充分すぎる題材だから不審者の感じはしないだろう。
今日はまだ日も明るいので、もう一枚くらい描けそうだ。
高齢の夫婦や友人との散歩の風景から、下校中の学生の姿も見られるくらいの時間になった。
特に時間は気にしていなかったが、15時過ぎといった所だろうか。1人の高齢者の女性が目の前を通りすぎようとしてふっと立ち止まった。そして私に
『良いお天気ですね。』と話しかけてきた。私は話しかけられたらこう答えようと考えていた事がたくさんあったのに、『そうですね』としか返せなかった。
用意をしても、それを役立てられるかはその人次第だと強く感じた出来事だった。
女性は続けて、『何をされてるの?』と聞いてきた。
これに関しては、準備していた言葉で返す事ができた。
『趣味で絵を描いているんです。』
そんな短い返事だったら、興味を失って去っていくかもしれないと一抹の不安を覚えたが、女性は笑顔で『少し見せて頂ける?』と聞いてきた。私は上手くない事や人に自慢できるもなのではないと前置きをしてから見せた。女性はまじまじと私の絵を見て、
『とてもきれいな絵ですね。暖かい印象を受けます。』と言ってくれた。多くは語れない口下手な私を気づかってくれたのだと思う。女性は絵を見るために隣に座ったが、その服装は散歩をするには少し動きにくそうで、お出かけするにはカジュアルな感じだった。
私は話をしたくて、『いつもここを歩かれてるんですか?』と聞いて見た。女性は私達の目の前を通りすぎたウォーキングの夫婦を見て、寂しそうに『一年前まではあの方達のように夫と散歩をしてました。』と言った。聞きにくい話だと思ったが女性は、
『病気で亡くなってしまいました。年齢も年齢だったんですけど、突然の事でしたからまだ気持ちの整理もできてないんです。』と言った。私はお気の毒にと言ったが、やはり他人事だし、亡くなった方も知らないのにあまり多くを話さない方がいい気がした。女性は『実は息子が老人ホームに入るか、一緒に暮らさないかと言ってくれました。どちらを選んでも彦根を離れる事になるんですけど、迷惑はかけたくないですから老人ホームにしようと思ってます。
それで夫との思い出の場所を訪れてたんですよ。
ホームに入ればきっとこんな事もできなくなりますから。』
私はやはり多くは言えない難しい問題だったので、そうですかとだけ答えた。女性は芹川を眺めながら『このベンチの所に来ると夫が疲れた休憩しようって言って座ってたんです。
長年、大工をしていて定年後も呼ばれたら働きに行くくらい体力があるのに散歩で音をあげるなんて考えられなかったんですけど、今にして思えば私を気づかってくれてたんでしょうね。
このベンチにただ座ってるだけで会話もない休憩でした。』
思い出のベンチだったのかと思って聞いていると女性はクスクスと笑った。どうされましたか?と尋ねると女性は
『夫もあなたのようでした。私が一方的に話して、頷いたり相づちをいれてくれるくらいで、自分の事を話してはくれませんでした。』と答えた。申し訳ありませんと言うと女性は怒っているわけではなく、夫と座っているような雰囲気が懐かしく感じただけだと言っていた。女性が写真を取り出して見ていた。
女性と夫の方の写真だろう。私が見ていたのに気づいたのか女性は『あなたの絵に私達を入れることできますか』と聞いてきた。
できるが上手くできるとは限らないと伝えたが、女性は笑顔でお願いしますと言ってきた。私は少し時間を貰って絵を描いた。
一枚は女性に渡し、もう一枚は記念に貰って下さいと言われたのでスケッチブックに残してある。(スケッチブック3頁)
名前も知らない女性との話しはきっと他の人から見たら意味のないものだったろうし、私がほとんど話していなかったから会話として見られたかもわからない。
でも、確かに私は名前の知らない女性の思い出に触れ、そして女性の感じていた寂しさを共感する事ができた。
長らく1人で居ることになれてしまった私は話すという事の大事さを忘れていたように思った。」
私はスケッチブックの3頁目を開いた。ベンチに女性といかにも大工といった男性が座っているところが描かれており、女性が笑顔で男性に話しかけている絵となっていた。
私が絵を見ているとチャイムが鳴り、故人の知り合いが来たのかと部屋のドアを開けた。50代後半の男性が立っており、
「ここは○○さんのお宅ですか?」
「はい。ですが、○○さんはお亡くなりになられました。
私は遺品整理を行う会社の者です。」
そう答えて名刺を渡した。男性は
「うちの母が○○さんに絵を描いて貰ったと言ってまして、かなり高齢でずいぶん前の事だったので本当かわからないのですが、どうしても『死ぬ前にもう一枚の絵が見たい』と言ってまして探してたんです。こちらの方はそういう遺品はありませんでしたか?」
なんと都合の良い話だろう。今まさにその絵を見ていた所に現れたのかと思うと奇跡に感じた。私は日記の内容を話し、男性も話してない事まで母から聞いた話として私に答えてくれた。
見事に一致したので、例の絵を見せると男性は涙を流した。
どうやら亡くなったお父さんに絵がそっくりだったようだ。
「この絵を譲って頂けますか?」
「もちろんです。こちらは故人の趣味で描かれた物ですし、故人は画家ではなかったので、価値のある作品とは言えません。
値段のつかない物はゴミとして処分する事になりますから、思い入れのある方がおられるなら差し上げますよ。」
男性はお礼を言って帰っていった。
こんな風に誰かに貰ってもらえる遺品ばかりなら、故人達も浮かばれるのではないかと思って今日の仕事はここまでにした。