二十七話
雨が降っている。
これ自体は珍しい事でもなんでもない。
段々とではあるが日記部分は書かれているのに絵の数が減ってきていたようには感じていた。
文字もはじめの方は丁寧に書かれていたが最近は震えるような文字になってきていた。
脳動脈瘤を患いながら、何にもなく生きていたわけなどなかったのだ。日記の中では死に対する恐怖等ないと言っていたが、心と身体が完全に一致する事などあり得ない。
心では諦めていても、故人の身体は死への恐怖で怯えていたのだ。震える身体を奮い立たせるように、自分は大丈夫だと自分に言い聞かせるように日記に強い言葉を並べていたのかも知れない。最後に書かれた日記は故人が発見される三日前となっていた。用事を伝えに来た知人が死後2日ほど経った故人を見つけたらしい。家の中は荒らされた様子もなく、故人の身体にも外傷はなかった。頭を抱えるように倒れていた事から突発的な脳動脈瘤の破裂による脳内出血だと判断された。
最後の日記には以下のように綴られていた。
「今日は一段と頭が痛い。
ここの所は体調も良くない気がする。だからと言って病院に行くほどでもない。そもそもがいつ死んでもおかしくないのだから病院に行っても意味がない。
この日記を誰かが読んでくれるとして、これからの1ページが毎回最後となる可能性を考慮して貰わなければいけないだろう。
私の描いてきた絵が彦根の古き良さを後世に伝えてくれるようにと描いた。私の独善的な考えだったが理解してくれる人もお膳立てしてくれる人とも出会えた。
けやき道のベンチに座り、行き交う人達と話すこともできた。
生来、私は人と話すのが得意ではなかった。
人は得意ではないものを避けて、得意な事や慣れ親しんだ事を中心に生活する。長所と呼ばれるものが重視され短所がある事を忌避する。でも、それは間違いだ。
天秤にかけた時に長所と短所がバランスをとってその人が成り立っている。どちらかが突出したらバランスが悪くなり立てなくなる。誰もがバランスをとれて生活しているわけではないから、家族、恋人、友人と支え合い生きているのだ。
短所という欠けたピースを埋めるために人は人と繋がり、サポートし合う。
だから忘れてはいけないのだ。
私が今日もこの大地に立ち、歩き、生きていけるのは誰かのおかげであるということを。
独りで生きてきたように感じていた私もきっと私がわかっていなかっただけで誰かに支えられていたのだ。
この事にもう少し早く気づいていたらと後悔する事もあるが、それも今さらな話でしかない。
私の人生が終わるその時までに少しでも感謝の言葉を~~ーー」
最後は何かを書きかけた状態から線がひかれていた。
おそらくこの文字を書いている最中に故人は亡くなられたのだろう。まさにこれからの人生を楽しもうとした瞬間に故人は亡くなった。これは皮肉なのだろうか。
日記を読んでる人、つまり私に向けた文章を書いたその直後に。
後悔した事を改めようとしたその直後に。
これからの人生を楽しもうとしたその直後に。
それができなくなるなんて、とても悲しい。
屋内にいるのに私の頬は雨に濡れていた。