二十三話
「いずれ散る運命だと言うならば、最後の最後まで強く生きて行こう。紅葉するけやきを見てそう思った。
彦根にも縁がある江戸時代の俳人・松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭に『月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。』という文があり、月日は永遠の旅人であり、来ては過ぎゆく年もまた旅人のようなものであるという意味だ。時が過ぎるのはとても速く、桜が咲いたと愛でていればあっという間に散ってしまい、夏が来たとはしゃいでいるうちにもう秋が来てしまった。
まだまだ暑い日が続いているが、風が、木々の色合いが秋の訪れを告げてくる。
けやきの木は、落葉広葉樹だから紅葉したあと葉が散り、そして新芽ができてまた新たな葉をつける。
けやきにも個性というやつがあるのか、赤色ぽっくなるものもあれば黄色ぽっくなるものもある。
紅葉する木としてはもみじが有名だが、なんの木かわからないが紅葉している木もたくさんある。
別に木について詳しいわけではないが、こうしてけやき道に座っているとけやきの変化にも目が行く。
なんだったかも忘れたが、世界が一つの木の形をしていて枝毎にそれぞれの世界があるといったパラレルワールドの物語を見たことがあるような気がする。
その物語では、枝につく葉が人間を意味していて時が経てば新芽から青々とした葉になり、紅葉して落葉する様を人の一生として
描いていた。物語自体はパラレルワールドや異世界を旅する冒険物語だったが詳細な内容までは覚えていない。
この物語のように葉の様子を人生に例えるなら、私の人生の現状は紅葉してもうすぐ落葉するところまで来ているのだろう。
落葉する葉もきれいな形のものから虫食いのもの破けたものと多種多様である。
私の人生という名の葉はどんな形だろう?
間違いなく言えることはきれいではないだろう。
虫食いだらけかもしれないし、色々な部分が欠けているかもしれない。
でも、どんな形でも最後まで枝にしがみつき生を全うしようとしているならばそれはきれいでなくても美しいのではないかと思う。葉は風に吹かれるような自然現象で散ることもあるし、鳥などの動物による外部的な現象で散ることだってある。
これは人にも言える事で自然災害で命を失うこともあれば事故や故意に他者から命を奪われる場合もある。
『紅葉して落葉する』といえば簡単であるが紅葉する前に落葉することだってある。人の人生も年老いて死んだというのが当たり前だと感じてしまうのは日本が平和だったからだろう。
紛争で貧困で流行病で大人になれない子供だって世界にはたくさんいる。私が年老いて病気ではあるが死を向かえようとしているとしても決して当たり前ではなかったのだ。
私は運が良かったのだろう。そして日本人の多くが運が良かったのだ。
政治に対する文句がないわけではないが、世界の色んな国と比較するとまだましだろう。
人は良い環境にいるとそこになれて、またより良い環境を求めてしまう。そこで生まれる贅沢な不満を抱えて生きているのだ。
悪いことではないし、より便利により良い生活を求めるから技術は進歩し、その時の環境に適応しようと文明が発展する。
だが、落葉するなら枯れてからが良いに決まっている。
命は大事に朽ちるその日を待てば良い。
死が避けられないものだとしても最後の時まで必死に生きよう。
途中で自分から投げ捨てる事なく終わりが来るまでは必死にしがみついて行こうと紅葉しだしたけやきの木を見て思った。」