二十一話
「何かを残そうと必死になるほど無駄を生む。
強硬姿勢で発信した言葉はあげ足をとられる。
押し付けられたものほど要らないものはない。
自然体でいること、自然に身を委ねる事が大事である。
なぜなら人は自然から生まれた生き物であり、自然のもの程美しいと感じるのだから。
けやき道に並ぶけやきの木の雄大さを感じながら、そんなことを考えていた。
私は迷子だったのだ。
いつからとかじゃないし、当然いつまでという事もない。
私を含めたすべての人が迷子であり、行き着く先もないままに彷徨っているのだ。
私の人生という名の迷路の終わりは見えてきた。この迷路からの脱出は人生の終結、つまり死を意味する。
死を意識するとその反対の生きるという事を意識してしまう。
生きる事に執着はないが、生きているもの達の死を想像してしまう。例えば花は枯れたら死んだことになるのだろうか?
鳥は空を飛べなくなったら死んだことになるのだろうか?
もちろん最初から飛ばない鳥もいるが、すずめや鳩やカラスのように空を飛ぶ鳥が飛べなくなれば、もちろん外敵に襲われるだろうし、エサを採ることも難しくなるだろう。
飛べたからできた事ができなくなると鳥は死んでしまうのではないか。
人は誰かに支えられる事で自分でできない事があっても生きていける。
しかし、私に支えてくれる人はいない。そうなれば、私ができない事が増えるたびに私は死に向かって進んでいくのだ。そんなネガティブな事を考えながら歩いているとけやき道の大きなけやきの木の前に来た。
『開国の樹』と名付けられた木は何を意味しているのか分からないし、どうしてこんな名前が付いたのかも知らない。けやき道には『開国の樹』のほかに『大老の樹』や『赤鬼の樹』がある。どれも樹齢400年を超える樹だ。幹が大きく開いているものもあるが今もまだ空に向かって伸びている。
彦根に城下町をつくるために芹川が整備されたときに植えられたのがけやきの木だったらしい。
つまり、これらのけやきの木は彦根の400年もの歴史を知っている生き字引なのである。
自然の中にあり、そして自らも自然の一部として人々に恩恵をもたらしてきたこれらの木はきっと意図して人々に恩恵を与えてきたわけではない。
ただそこに悠然とそびえ立つことによって人々が勝手に恩恵を得ていたのだ。
人が自ら作ろうとした実績は時と共に色褪せ、または時代が変われば批判の的になるだろう。
最近では『レガシー』なんて言葉で無駄に高い建物を建てて仕事をした気分になっている政治家が多いがそれも時が過ぎればただの税金の無駄遣いだといわれるだろう。
どうせ歴史に名前を残す事も出来ない政治家に税金を無駄遣いされているのかと思うと税金を払う側としては納得のいかない部分はある。
人は見習うべきなのかもしれない。何も考えなくても、何の見返りも求めていなくても誰かに恩恵をもたらせる自然という大きな存在の在り方を。
私という存在が誰かに恩恵を与えられるような存在になるために何をしなければいけないのか、そして私が自然に行っている日常生活の中で誰かを支える人間となるようにするためにはどうすればいいのかを考えたが、その行為自体が『意図せず』から外れている。
しょせん、私は考えて人に尽くさなければいけない凡人なのだ。
自然と人のために行動できるそんな人間にあこがれているだけの凡夫である。
私の考えが一人でも多くの人に伝わるように日記に残しておこうとそう思う。」