二話
私は日記の方のノートを広げて、1頁目を見た。
先頭に先ほど見た、『けやきの木の葉が揺れる音がする。何気ない日常でも昨日と違う今日がある。』という言葉と、『スケッチブック1頁』の後を見た。
「けやきの木の葉が揺れる音がする。何気ない日常でも昨日と違う今日がある。(スケッチブック1頁)
ただの日常に疲れ果てたと感じた時、自分の人生の意味を考えてしまった。
ツライ事があった。でも生き続けなければいけない社会で同じ場所にい続けたら自分が壊れてしまいそうに思ったからフラフラと行先も決めずに歩いていた。
だが、悲しいことにずっと歩き続けられるほど若くもなく、立ち止まり、息も絶え絶えに休憩できる場所を探した。
見つけたのは、芹川の堤沿いにあるけやき道の石でできたベンチだった。誰が清掃しているわけでもないベンチは少し汚れて見えたが、そんな事も言っていられないくらいに体力の限界が来ていた。
座ってみると硬い。冷たい。
でも・・・・・なぜだか心地よかった。やっと休憩できたからだと言われたらそうかもしれない。
ベンチに座り、息を整えるために下を向いて深呼吸を繰り返す。
やっと息が整った所で、顔を上げるとけやきの木とその向こうに流れる芹川に太陽の光がきれいに反射していた。
持っていたスケッチブックと色鉛筆でその光景を再現しようとしたが上手くはいかなかった。
家に帰ってから、写真を撮ればよかったと思ったが、それでは意味がないと思った。
自分の人生の意味を考えて歩き、行き着いた先で目にした想いを残すのに誰でも撮れる写真ではなく、自分で描いた絵だからこそ意味があるのではないかと思った。
写真できれいにその光景を残せたとしても、後で見直してきっと何の写真だったか思い出せないだろう。
上手くはなくても自分が時間をかけて描いた絵だからこそ、自分に伝えるメッセージになると思う。
上手くいかなかった自分の人生でも、自分で形にすればきっと自分の人生の意味を教えてくれるようなモノになるかもしれない。ひたすら歩き続け、時に走り抜けてしまったからこそ今は立ち止まり、同じ場所から自分を振り返ってみよう。
止まっていれば動き続けていては見つけられなかったことも見つかるような気がする。
絵を描きながら、その日にあった出来事を日記にしよう。
自分の人生を、今を生きているこの時を、形に残せば見つかるかもしれない。」
この日の日記はどうやら日記を書く動機を綴ったようだ。
この老人の『ツライ事』が何か言及されていなかったが、思い悩み彷徨った先でけやき道のベンチに辿り着いたようだ。
他の作業もあるから、今はここまでにしておこう。