十九話
「人の思考とは人を奮起させあるいは守る道具となり得る。しかし、その反面として他者を、自分を傷つける凶器にもなり得ると知った。
ベンチに座り、呆然と手元の紙を見た。
体調が悪かったから、病院に行き検査をして貰った結果が書かれた紙は私に死を意識させる物だった。
結論から言うと脳動脈瘤ができていた。
痛みもほとんどないし、体調不良も別に頭が痛かったわけではない。でも、確実に動脈瘤はできていて記憶を司る分野の近くで神経を圧迫し始めているらしい。
手術を勧められたが、難易度は高く動脈瘤自体を取り除けても記憶障害が残る恐れがあるらしい。
また、年齢的にも長時間の手術に耐えられるかはわからないと言われた。
ああ、これは天罰が下ったのだろう。
この前、すべて忘れて風のように自由になりたい等と思った罰なのだろう。
特に信心深いわけでもないし、どちらかと言えば鼻で笑っていた部類の話だが、何でも良いから何かのせいにしたかったと言うのが本音だろう。
手術が上手く行っても記憶に障害があり、手術を終えられるかも不鮮明なら、私のために使う病床も医師の時間も無駄になるように感じて手術は断った。
いつ破裂するかわからない爆弾を頭の中に持ちこれから人生が終わるまでを過ごすことになったわけだが、恐怖はない。
悲しんでくれる人がいないと残すものに対する未練もないし、後悔することもない。
ただ、動脈瘤が記憶分野を圧迫するなら手術しなくても記憶障害は起こるらしい。
少しでも楽に苦しまずに死ねたら良いと考えてしまう。
以前、私の横に座った彼も死の淵で迷っていた。彼は孤独死だけは避けたいと病院で死ぬことを選んでいたが、私にはそうするつもりが全くなかった。
おそらく一人で居すぎたために誰かがそばにいる所を想像できなくなっていたという部分もあるだろう。
何の縁もゆかりもない人が死ぬとなった時に人はどうなるだろう?
看護師さんやお医者さんはきっと親身になって話を聞いてくれるだろうし、死ぬまでの間は話し相手くらいにはなってくれるかもしれないが、いざ死ぬとなった時に業務的な行動以外の対応をしてくれるだろうか?人によるが正解かな。医療にかかわる人も色々だろうし、今まさに死のうとしているこっち側が惜しまれる人間かどうかというのもある。二つの要素が重なって奇跡的な対応が起きる事はあるかもしれないが私のような偏屈な人間ではそれも望めないだろう。
孤独死は不動産の所有者や管理会社に大きな迷惑をかけてしまうらしい。資産価値を落とす面が最も大きいが、日本人は幽霊やお化けなんてものを信じているから、次の入居者の人にも迷惑をかけてしまうだろう。私の記憶に問題が起きる前に色々とやっておきたい事がある。
私が動けるうちにやっておかなければいけない事がある。
いつかはわからない終わりに向けて歩き出す終活はきっと後ろ向きな考えだと、ネガティブだと思われるかもしれないが、私の人生という名の旅のゴールに向かうラストスパートだと思うと、病気の事も孤独死に対する怖さも薄らぐ気がした。
むかしの人が言った『病は気から』という言葉の本当の意味を知った気がする。
そう何もかもが考え方次第なのだ。ダメな方に考えれば心は病み、良い方に考えれば心が軽くなる。
努力をする事にとって大事なのは成果や結果ではなく、そこに至るまでの過程であり何をなそうと必死になれたかなのだ。
世界に住む75億人ほどのうちのたった一人である私が死んだとして世界は変わらないかもしれないが、それでも誰かの心に明るい灯をともせる人間になろう。私の終活の目標が決まったところで、琵琶湖に沈んでいく夕陽を絵に描いてみた。
寂しげではあるが、それでもこちらを明るくしてくれる夕陽はとても暖かかった。」
この遺品整理をする仕事をする際に故人の死因は教えてもらえない。
個人情報だからと言ってしまえばそれまでだが、例えば自殺したような場合に背景には暗く思い過去を想起させてしまう。中には興味本位で詮索して精神的な病になって仕事を辞めた人もいたらしい。
だから故人の死因は知らない方が良いし、知ったとしても気にしない方が良い。
故人は病気だった。突発的な原因で死亡したわけでもないからこんなに片付いているのかと変な所で納得してしまう自分が少し薄情な気がした。夕陽の絵は本当にきれいだった。
この画力もきっと故人が培ってきた人生の集大成の一部なのだろうなと思いながら、私はノートとスケッチブックを閉じた。