十八話
「風の香りが季節を連れてくる。
どこから来たのか、そしてどこへ行くのかは知らない。
だからこそ、風とは自由の象徴なのではないだろうか。
彼とはその後も数回けやき道のベンチで話をした。
あの男もあの女も不幸になって当然だと彼が言ってくれた時は心にのしかかっていた重力がなくなったような気がした。
彼が言うには男は仕事もなくなり、自分の家族もそして親兄弟からも見離されてホームレスになったらしい。
女の方はプライドばかり高くて職場にしがみついたが、元から男の方からの圧力があって雇用され、何もしないくせに給料ばかりとっていく邪魔な存在だったために解雇されたらしい。
その後もまともに働かなかった上に子供の面倒も見なかったので親から勘当され、子供は母方の親が育てたらしい。
その子供が彼らしく、彼は母親の顔すら知らないし父親がどんな人物だったのかも知らないらしい。
祖父が亡くなり、祖母も病気で先が短くなった時に彼の両親について祖母が話したらしい。
だが、両親がその後どうなったかはわからなかったので、私の話もしたらしい。
私は彼が復讐に来たのだと勝手に思っていた。しかし、彼はとてもまともな人間で、自分の両親よりも私に同情してくれた。
二人のその後を知らないかと尋ねられたが、知るはずもないし知りたいとも思わなかった。
私は記憶に蓋をして、記憶に関するものすべてから逃げた。
いつの間にか心の奥底に追いやっていた記憶の塊が彼と会った事で開いたが、それも怒りや憎しみではなく恐怖だった。
私をあの記憶の中に引き戻そうとしてるのではないかという恐怖、そしてあの記憶の責任を追求されるのではないかという恐怖。
私はただただ怯えていたのだ。
自分のやった事に後悔はない、悪いと思ってない。
でも、やり方がただしかったか?あそこまでやる必要はあったか?と誰でもない私の声が聞いてくる。
記憶とは私を形作る型や箱のようなものだ。
認知症の人が以前と別人のようになってしまったなどと言う話を聞いた事がある。
もしかしたら記憶の障害で、型や箱が壊れた事によってその人自体が壊れていっているのかもしれない。
これはあくまでも記憶を型や箱に例えた上での考えだが、記憶という箱は時に自分を守り、時に箱の中身を閉じ込めた上で苦しめてしまう。すべて忘れてしまえたなら、私が私でなくなったなら、私は風のようにどこに行くでもなく、ただこの世界の美しいものだけを求めて旅立てるのではないかと思ってしまった。」
故人のいう『彼』は元妻と浮気相手の子供だったらしい。
彼は故人を責めに来たわけでもなく、関係者から両親について聞きに来ただけだったようだ。
故人の勘違いではあったが、心にダメージを与えるには十分な出来事だったようだ。