十七話
「嵐のように時が過ぎたと思えば、まるで止まっているのではないかと思うほどゆっくりと進む時がある。
楽しい時ほど早く、嫌な時ほどゆっくりと進む。
剣の達人は相手の刃が止まって見えるらしい。それほどまでに感覚が研ぎ澄まされているのだとしたら、嫌な時がゆっくり進むのは逆に集中しているからなのかもしれない。
逃げたいと思ったことがあった。実際に逃げてしまったのだから願望ではなく『逃げた』事があったというべきだろう。
私は家族から逃げた。元々が誰かと一緒にいる事が得意ではなく一人で絵を描いたり本を読んだりする事が好きだった。兄弟もいなかったから子供の頃はそれでも大丈夫だったが、高校生になり、大学生になり、社会人になると周囲は人との付き合いを重視し、私のように一人でいたいと思う人間も無理やり輪の中に入れようとしてきた。それに救われた事もあったからすべてがすべて悪いわけではない。
仕事上の相手に半強制的に結婚させられた事が私にとって悪夢だったのだ。
向こうも同じような感じだったからお互いに愛情などなく、何のために一緒にいるのかわからないようなそんな関係だった。相手は相手で仕事をしていたし、お互いの収入に大差はなくただの同居人として生活費を折半して自分の事は自分でやるといった感じで生活が続いていた。
別れたくても別れられない理由もあった。紹介してきた仕事上の相手がそれを頑なに許さなかったのだ。
なぜおまえに反対されなければいけないのか?とその時はわからなかったが理由は単純明快だった。
私の結婚相手がその男の不倫相手だったからだ。
私はただの都合のいい隠れ蓑にされていただけだった。
それを私が知ったのは、結婚相手に子供ができた時だった。
愛情のない仮面夫婦の私達に子供ができるわけもない。当然、不倫していたことは明白だったが、それ自体に怒りを覚える事もなかった。なぜなら結婚相手に何の感情も持っていなかったからだ。
だから私が怒りを覚えたのだ結婚させてきた男にずっと良いように利用されていた事に気づけなかった事だった。不倫をした事を問いただす立場になかったので、このまま関係を終わらそうとしたがクズな男はこの段階でも離婚を認めなかった。子供を私の子供だという事にして自分の不倫をなかった事にしようとしていた。結婚相手もそれに同意しているようでそこで初めて彼女に怒りを覚えた。
私は仕事上の相手の男を信頼していた。この結婚も私の事を考えてくれているのだと思った。
だが、私の考えた事すべてが妄想だった。男は信頼できる人間でもなく、結婚もただの幻だった。
私は人に傷つけられた時の対処法を知っている。証拠を提示してすべてを暴露し真実を会社・知人・相手側の関係者すべてに知らしめてやった。
悪いのはすべて向こうなのだから私は堂々としていようと思ったが、同情されたり憐れんだりされる事に耐えられなくなり、会社も辞めてしまった。
もちろん相手側から慰謝料を大量にもらったので、金銭的余裕があったからできた事ではあったが、それでも私の気が晴れる事はなかった。
あいつらを破滅させても何も変わらなかった。
この話を私は嫌な思い出として彼に語った。
嫌な話をするのだから時間はゆっくりと進むように感じる。
いつものベンチに座って、長く感じる時間をかけて私は彼にすべてを話した。
彼は相づちを入れる事もなく、ただただ黙って聞いていた。
彼を見て一度逃げ出してしまった私のいう事など信じてくれるのかと不安だったが、彼は静かに聞いていた。すべてを話し終えると彼は頭を深く下げて無言のまま帰って行った。
彼が許してくれたのか、それともどうしようもない怒りを感じて何も言えなかったのかはわからないが、
彼の人生の止まっている時間が私の話をきっかけに動き出してくれる事を期待せずにはいられなかった。」
故人は裏切られていた。それも最も信頼する人とそして家族だった人にだ。
最後に出てくる彼が誰なのかはわからないが、相手側の関係者だろう。
故人が落ち込んでいたのもこの『彼』の登場で昔の事を思い出していたからなのだろう。
彼が孤独な道を歩んだきっかけはわかったような気がしたが、彼が孤独死に至った理由まではまだわからないままだった。