十六話
夏の景色が多く残されているスケッチブックも終わりが近いようだ。
日記と対応するように書かれているところもあれば、うまく描けなかったのか斜線がひかれた途中の絵もあった。そうしてスケッチブックの頁が進んでいく。
私の仕事も大まかな所でいえば終わっているが、まだまだ捨てるかどうか迷っている物もある。
何より、故人が孤独死に至った理由がつかめていない。
彼は出会いによって自分自身も孤独死の可能性を考えていたし、それに備えておこうとしたはずだ。
故人の日記に答えがあるかはわからないが続きを読み進めることにしよう。
「花火の美しさとは、いつでも変わらないと思わせる所にこそあるのではないかと思う。
残念な事に花火大会は中止になったそうだ。
別に毎年楽しみにしているというわけではないし、高齢者と呼ばれるようになって久しくない私は花火を見に行こうと思ってもいなかった。
だが、毎年あると思っていたものが無くなればそれはそれで悲しいと思う。
『あって当たり前の物』など何もない。
でも人は当たり前を望みすぎている。
国が提供する保険制度はあって当たり前、市区町村が行う行事もあって当たり前、家族や友人がいるのも当たり前なのだと思っている。
世界には高額の医療費が払えないために病気で亡くなる人もいる、財政難や過疎化による人員不足で行事ができない村もある。そして、孤独を抱える人も多種多様な理由で存在している。
『あって当たり前』と思えるのはその人達が幸せだからなのだ。
持たない人からすれば、『なくて当たり前』であり『期待するだけ無駄』なのだ。
彦根は観光の街であり多くの車が走っている。
必然的に道路は傷むので補修・改修しなければいけないので公共事業は増える。
彦根城を世界遺産にといった活動も行われているが、彦根城をいくら宣伝しても周りが整備されていなければ彦根城に魅力があってもそれも半減以下になるだろう。
彦根城沿道の生け垣は伸びたままの期間が長い。観光客向けの駐車場のそばなのだからきれいにしておかなければ格好悪い。
行事があるならそれまでにきれいにしておこうという感じもない所がダメな所だと考えてしまう。
こういう風に考えてしまうのも『きれいにしておく事が当たり前』だと私が思っているからに他ない。
結局のところ、『当たり前』とは価値観なのだ。『こうあるべき』・『そうでないとダメ』・『なんで違う事をするのか』といった押しつけなのだ。
その点で、花火はとてもいいと思う。
職人によって、色や火の広がり方、大きさを変えられるのに見た人すべてが美しいと感じるのだから、すべての人の価値観が共通して『花火は美しいもの』と認識している。
マナーを守れない観客がいる事で批判される事もあるが、花火自体は誰が何と言っても美しい。
花火を見ている人の目には等しく美しいものが見えていて、形や色を変えても変わらずに愛される。
花火とは変わらない美しさを多種多様に見せてくれるからこそ、見れないとなると寂しく・悲しくもなるのだろう。
あと何度、花火が見れるかわからないが人と共有できる美しいものが早く普通に見られる世の中になればいいなと私は思った。」
この人は学者だったのだろうか?哲学者とかならこんな事も考えるかもしれない。
難しい事を考えるのが好きな人で世間の事を斜めから見ているのかもしれない。
そういえば、この故人の家からは生前の職業に関する物が何もなかった。
同僚と撮った写真、職場に向かうために使っていたであろうビジネスグッズの類もない。
故人についての謎は深まるばかりだった。