十三話
「立ち上がるきっかけというのはポジティブな物ばかりではなく、押し付けられたり踏まれたりする事に対する反発のようなあまり嬉しくはない状況でも訪れるのだと川辺の草や花を見て思った。
竹は人が故意に攻撃を加えない限り外敵に脅かされるような事はないだろう。
だが、しかし地面に生えている草や花はどうだろうか?
誰かが植えて育てているものもあれば、種を飛ばして自生しているものもある。
誰かが育てるのならば鉢に植え、石垣を作り、雑草を抜いて等の管理を行う。それでも、心無い人間によって害される事がある。人の努力も知らず自分の欲求を満たすためにくだらない事をする人間がいる。
では、自生している名前もわからない草や花はどうなのだろうか?
私や大多数の人間が名前を知らないだけで学者や専門家、マニアと呼ばれる人達からすれば、『名もない草』ではなく名前を教え、どんな草や花なのかを解説してくれるだろう。
人は生きる中で簡単に『価値』を決めてしまうのではないだろうか。
物の価値に値段をつけ、動物や植物に人間にとっての有益性という価値を与え、そして人間の間で優劣をつけて自己満足に浸る。オンリーワンを大事にすると歌った歌があったが、社会は足並みをそろえる軍人のような人間を基本とし、足並みを合わせられない者や合わそうとしない者を排除しようとする。
私はおそらく社会から排除された側の人間だからそう感じるのだろう。
そういう意味では、私は種を飛ばして好きな場所で自生している植物が羨ましくもなる。
居なければいけない場所や行かなければいけない場所もない。
そんな生活を私はしたかったのだ。そう考えると私が毎日この場所にきて絵を描いているのも私が『ここにいたい』と強く願ったからなのかもしれない。
誰にも管理されない草や花は踏まれても蹴られてもむしられても誰にも助けてはもらえない。
そのまま枯れてしまう事もあるが、次の年には新しい芽をつけ新しい命を見せてくれる。
私が中途半端な状態で沈んでいたのも一度深く沈んであがいているうちに、深く沈む前よりも浮上する事が出来たように思う。強い力で抑え込むほどバネは伸びるときに強い力を発揮する。
あるいは雨降って地固まるという事なのだろうか。
少しずつではあるが暗い気持ちが晴れてきている気がする。
何度失敗してもいい。何度踏まれても次に進む糧にすればいい。
私は名も知らない草や花を見ながら強く生きるという事が綺麗事ではなく、泥まみれの中で必死にあがく事なのだと感じた。」
故人は立ち直っていた。
故人の日記には相変わらず『なぜ』と感じるところがあるが、薄暗い道を手探りで歩き続けていた彼の人生が深い闇に落ちた事から明るい場所に出るきっかけをつかんだようだ。
荷物の整理も大体できた。もともと散らかっていなかったのだから整理するほどのものもなかった。
でも整理しきれない事もある。彼が書いたであろう日記と絵には、故人が人生の最後に伝えたかった何かがあるのではないか、あるいは誰かに伝えたいメッセージがあるのではないかと感じる。
泥の中に一輪の花が描かれている。有名な花ではないが見た事のある花だ。
懸命に生きる花を描きながら、故人はきっと生きる事に前向きになったのだろう。