十一話
「鳥のさえずりこそが理解しあえないものの象徴だと感じる。(スケッチブック11頁)
今日は座ることなく、歩き回っていた。
『あの場所』にいれば、また思い出して心がつぶれそうになるからだ。けやき道の舗装された道と生け垣の間の土の地面になっている所に立って目を閉じた。
人の声、車の音、川のせせらぎ、枝のきしむ音、葉のぶつかりあう音、そして鳥のさえずり。
この場所には多くの音がある。
人由来の音、自然がもたらす音、動物の音のそれぞれが意図せず重なりあい時にハーモニーを奏で、時に不協和音を響かせる。
私は音楽などにはうとい方だが心地よい音と嫌な音くらいは感じ取れる。今の聞こえている音は決して嫌な音ではない。
目を開けて、鳴いている鳥の姿を探した。よく目にする鳥だが、私は名前も知らない。調べようと思ってもどう探せば良いのかわからずに諦めてしまう。
この鳥の名前を知ることは決してない気がするし、向こうだって私に知って欲しいとは思っていないだろう、
そもそもの話が、あの鳥に思考はあるのだろうか?
インコ等の人の言葉を覚える鳥にしても、覚えた言葉を最適な場所で使えるかは疑問であり、そんなことはアニメの話でしかない。あのように鳥が鳴いているのはなぜなのだろう?
思考がないなら『伝える』事もないだろうし、本能的に危険を感じているとして、鳴いてる場合ではなく逃げるべきだ。
鳥同士では声は伝わるのだろうか?
例えば日本人の私が英語や中国語、ドイツ・フランス語で何か話しかけられたとして理解できないし、それが危険を伝えるものだとしてもそもそもが理解できない訳だからどうしようもない。
小型の鳥が鳴いているのはよく聞くが、小型同士で同じ鳴き声で大型の鳥は違う鳴き声なら言語の違いで敵に知らせる事なく伝えられるのだろうか?
いや、そんなことはない。
同じ言葉を話していても伝わらない奴だっているのに、違う言葉ならより理解できないだろう。
すれ違ってばかりの意見、いつの間にかすり替えられる話題、真摯な言葉を聞かず身勝手な解釈で逃げようとする心。
どれか一つ又は二つや全部の要因で人はわかりあえない。
なのに鳥は理解しあっているなど考えたくもない。
鳥が何を鳴いているのか私にわからないように、私が鳥に向かってうるさいと叫んでみたとしても同じように鳥にもわからないだろう。理解されないのに叫び続ける苦しみは鳥でも人間でも変わらない。
鳥のさえずりこそが、理解される事もなく繰り返される悲しい行為だと感じてしまうのは私が理解されにくい存在だからなのかもしれない。
願いが叶うならば、危険を教える親切な叫びや思いやりのある声くらいはすべての生き物がしっかりと聞こえ理解できるようになれば良いのにと感じた。」
この仕事は基本的に一人で行う事が多い。
身寄りのない人からすれば他人がぞろぞろと集まって、『これは大事』・『いやそうではない』とケンカされても困るだろうし、引き取り手のない遺産が国庫に入るからと言って細かいところまでチェックされるわけでもないので、多人数でやるより単独でスピーディーな片付けを望まれる事が多い。
これももしかしたら、他人には理解できない何かをめぐってトラブルを起こすのを避けるためかも知れない。
理解しあえなくても伝えるために頑張りたいという意味なのだろうか?
スケッチブックに大型の鳥に狙われているのに気づいていない小鳥に向かって小鳥が叫んでいるような絵が描かれていた。