十話
次の頁は真っ黒に塗りつぶされていた。
なにかを書いて消すのではなく塗りつぶされている。
決して長い文ではなかったのだろうが塗りつぶされている。
そんな感じの頁が何枚か続いていた。
明らかな異変である。
前回、『夕陽がきれいだ』と言って帰ろうとしたところまでは普通の日記だったが、そこからがよくわからない事になっていた。
スケッチブックの方も夕陽の絵のうしろが何枚にも渡って破り捨てられていた。
私は日記の黒塗り頁をどんどんと飛ばして、やっと文章がある頁にたどり着いた。10頁は黒塗りだっただろう。
文章を読み進めた。
「影が離れてはくれない。それはきっと私そのものを写す鏡であり、無意識のうちに私に過去を伝えるためなのだとわかった。(スケッチブック……10頁)
私には目を背けたい過去がある。私自身の失敗からくるもの、悪意により歪んでしまったもの…………失ってしまった家族。
日の光が足元に影を作る事に違和感を覚えたことは今までなかった事だ。私が一歩踏み出せば影もまた一歩踏み出す。
当たり前の事だがこれは真理なのだと思う。
一番近くで私を見ていて私と共に生きて来たからこそ、私にしかわからない事や人生そのものを共有している。
難しい事ではない。しかし、恐怖する対象ではある。
そう影とはパンドラの箱なのだ。
私が目を背けて封印した物を何も言わずにしまっている記憶の箱。
だが、時折箱は開かれ過去が私を追いかけてくる。
箱が開かれるきっかけは多種多様である。
関連ある人と再会した時、似たような光景を目の前にした時、フッとした瞬間にフラシュバックする事
だってある。
嫌な思い出ほど何もなくても思い出して胸が苦しくなったり、どうしようもない怒りで私の心を満たしたりする。外に発散させることを苦手とする私には永遠に続く苦しみのようにすら感じる。
落ち着いたところで過去が消えるわけでもなく、目の前にある何かに思いきり頭をぶつけていっそのこと記憶喪失にでもなれれば楽になれるのではないかと考えてしまう事もある。
私はこうして文章にしてみても心の整理ができず、かといって何もしないよりかは落ち着けている気もする。
おそらく私はまたパンドラの箱に怒りを封じ込める事によって『今の私』を保っているのだろう。
光がある限り影はできるし、目に見えていないだけで影はずっと私のそばにある。
そして私はいつ爆発する、あるいはあふれて洪水を起こすかわからない危ないものを抱えながら生きているのだ。
きっと他の人もそうだろう。
箱の中身が違うだけで、怒りや悲しみ葛藤を抱えている。
何かの拍子にあふれ出せば、涙になり声になり、そしてまた箱に還っていく。
私が死ぬ時まで抱えるこの箱とのつきあい方をおそらく死ぬまで理解する事はできないだろうし、理解するべきでもないのかもしれない。
そう、この影という名のパンドラの箱は私の人生における黒い部分であり、私自身から出たさびであり、そして私の人生そのものなのだと今にして悟ったような気になった。」
故人の『黒い部分』が何を意味しているのか、彼のいう『箱』を開けるきっかけが何だったのかなどについての言及はなかった。
しかし、スケッチブックに描かれていた絵は今までの爽やかな画風からは想像もできないほど暗く、陰湿で恨みをそのまま乗せて描いたかのように恐怖する影が頭を抱える人を津波のように押し包もうとしている絵だった。