第2話 ヒューマノイド
「湾岸警備保障の菖蒲です」
何の装飾もないクリーム色の長く細い廊下が終わった場所で、俺はヘルメットのバイザーを持ち上げ、胸ポケットに装着していた写真付きICカードを出迎えの男に差し出した。
すぐ横は銀色の鉄格子で守られたカジノの金庫室だ。
「あんたが?」
ワックスで髪を立たせ、耳に青く小さな宝石のピアスをつけたトカゲのような雰囲気の長身の黒服が、ことさら見下ろすような視線を俺に向けた。
『こんな小柄でガキみたいな警備員で大丈夫なのかよ』と、その蔑んだような瞳は雄弁に語っていた。
トカゲのような男は、片手で俺のICカードを受け取り、カードの顔写真と俺とを見比べると、腕につけた携帯端末にカードの表面を近づけ、データを読み込んだ。
「まっ、ヒューマノイドの方はそれらしいか」
男は俺に聞こえるように、わざと大きな声でつぶやいた。
俺のイライラした感情は恐らく顔に出ていたのだろう。俺とトカゲのような男は少しの間、非友好的な視線を交わしあった。
「ちっ」
男は軽く舌打ちしながら片手で俺のICカードを返した。
「じゃ、運んでくれ」
声を合図にトカゲのような男の後ろに佇んでいたヒグマのような黒服のヒューマノイドが、金庫室に向かう鉄格子を開いた。
「気に入らねえ」
俺は銀色の大きなジェラルミンケースの取手を白い革手袋をした左手で握り、クリーム色の細く長い廊下を出口に向かって転がしていた。ガラガラという音が響く。
俺は小柄で童顔で、全体的には小動物のような優しい雰囲気を漂わせていたため、舐められることが多かった。
不必要に相手を威嚇威圧する必要はないと思うが、世の中には弱そうな相手を見つけると、いたぶってやろうなどと考える人間のクズが実に多い。
俺はそんな相手は睨みつけ、殴られれば倍にして殴り返すことを信条にこれまで生きてきた。
おかげで小中学生のころは生傷が絶えなかった。
「現金を運ぶのは不満か?」
俺の前を歩くシェパードが、俺のつぶやきを聞きつけて、振り返らずに話しかけてきた。
どうも俺の不機嫌の原因はわからなかったらしい。
「ディープ・ラーニングもまだまだだな」
「違うのか?」
「情報収集能力に優れたヒューマノイドが警戒任務にあたるのが合理的だってことぐらいわかってるよ」
「そうか」
「なんせ、ヒューマノイド様は高価で有能だからな、単価の安い単純な肉体労働なんかさせちゃあ、もったいない」
「やはり怒ってないか?」
俺の皮肉に、シェパードは不安そうに反応した。
シェパードの購入価格は平均的なサラリーマンの年収のざっと一〇倍。
耐用年数は一〇年なので、人間と同じように働かせたら投資効果があるのかないのかわからない。ただ、人間と違ってヒューマノイドは労働基準法の適用外だ。疲れも知らないので二十四時間働かせることができる。だから元が取れるのだ。
それでも単価の安い仕事なんかをさせていたらオーナーの資産運用にはならない。
うちの会社では現金輸送や要人警護など、比較的時間単価の高い仕事をヒューマノイドにやらせていた。
ちなみに、シェパードは日中は現金輸送。夜は機械警備でアラートが上がった場合の現場確認用に当直していた。まさに二十四時間勤務だ。
うちの会社は受注していないが、常駐の施設警備やイベント会場の警備など、単価の安い仕事は、人間の、それも年寄りがやっていることが多い。
世間的には、労務単価の高い医師や弁護士や公認会計士などが絡む仕事にヒューマノイドの進出が進んでいた。記憶、検索、演算、論理的思考、画像解析などは人工知能の得意分野なので、その手の仕事でヒューマノイドは確実な成果を上げていた。
それに対して労務単価の安い仕事は、人工知能を搭載していないレベルの安価な機械か人間が処理するのが普通だ。
人間にしかできない仕事を人間がやっているケースも当然あったが、それは逆に一部の話だ。
ちなみに、警備の仕事や警察の仕事などはその一部に該当した。人工知能基本法により民生用のヒューマノイドは人間に危害を及ぼすことができないからだ。
荒事に発展する可能性のある仕事は、ヒューマノイド単独での運用ができず、人間とコンビを組ませる必要があった。
「俺の機嫌が悪いのは世間に対する怒りってやつだ。お前に怒っているわけじゃない。それにしても確かに重いんだよなこのケース。いまさらながら思うんだけどさ、大体なんで現金なんだ? 電子決済にすればいいじゃねえか。今の時代、電子マネーが当たり前だろ」
俺は不機嫌な感情を隠さなかった。
「入出金の履歴が残るのを嫌がるからということらしい」
「はあ、なんだそりゃ?」
「税務署に捕捉され、税金で持っていかれるのを嫌がる人間もいるということだ。だからカジノで現金は寧ろ当たり前らしい」
「それ違法なんじゃないのか?」
「そうだな、節税ではなく、脱税だ」
「まったくろくなもんじゃねえな」
「カケルは払うべき税金がロクにないから心配事が少なくてよかったな」
「お前、俺を馬鹿にしてないか? どこでそんな嫌味な言い方を覚えたんだ?」
「わかっていると思うが私の会話サンプルの八十パーセント以上は、私の相棒であるカケルの発言だ」
「けっ!」
そんな会話を交わしている間に長い廊下は終わり、俺たちは通用口にたどり着いた。
「今日は雨の予報だったっけ?」
俺の視線は現金輸送車の脇に佇んでいる黒く長い傘を持つ男に釘付けになった。
黒い薄手のジャンパーに白っぽいTシャツ、黒のチノパン、黒のスニーカー。痩せ型で猫背だ。
前髪が長く目元はよくわからない。嫌な雰囲気を漂わせた男だ。
「いや、雨の予報は出ていない」
俺は思わず空いている右手を握りしめた。白い革手袋がキュッという音を鳴らす。
左の腰に下げた金属製の警棒を握ろうかと考えたが、そのためには一瞬、ジェラルミンのケースを手放す必要があった。
右側から耳障りなエンジン音が轟いた。
視線を向けると、中型バイクが歩道の上をこちらに向けて突進してくる。
走りながら前輪を持ち上げ、ウィリー走行で俺に襲い掛かった。
フルフェイスのヘルメットのため、顔はわからない。大柄の男だ。
上下ともに黒のライダースーツに身を包んでいる。
「危ない!」
シェパードが俺を庇い、バイクの前輪をつかんで受け止めた。
荒々しいエンジン音とタイヤの軋む音が響き、ゴムの焦げる嫌なにおいが立ち込める。
「!」
背筋に寒気が走った。
何か殺気のようなものを感じて視線を巡らせると、傘の男が音もなく俺に駆け寄ってきた。長い傘を刀でも持つように握っている。
俺は左手でジェラルミンケースの取手を強く握りしめ、反射的に右手で顔の前をガードした。
左の腰に下げていた金属製の警棒を引き抜く余裕はない。
男は傘を両手で握り、刀を鞘から抜くような動きをした。
ヒュンという風切り音が響き、右の脇腹に鋭い衝撃が走る。
苦痛で息が止まりそうだったが、何とか相手を睨みつけると、男が握る傘の柄から先の尖った金属製の棒が伸びていた。傘に偽装した武具だ。
現物を見るのは初めてだが、多分、中国武術で使用される『鉄鞭』だ。鞭といってもロープのように相手の身体に巻き付く軟鞭ではない。打撃で相手にダメージを与える打突武器だ。
〈刃物じゃねえのかよ……〉
俺の着る警備員の制服は、防弾、防刃機能に優れていたが、鈍器の衝撃はあまり吸収してくれなかった。今の攻撃で、あばらが二、三本いったかもしれない。
戦意を失わず睨みつける俺に、男は薄ら笑いを口元に浮かべながら再び鉄鞭をふるった。
暴力に快楽を感じるクソ野郎だ。頭に血が上った。
風切り音に混じって、甲高い金属音が響く。
「痛てえな、この野郎!」
俺の右手は相手の鉄鞭をしっかりと握りしめていた。金属音は俺の右手から発したものだ。
「な!」
男が思わず叫んだ。鉄鞭を手のひらで受け止めるなど、ありえないと思ったのだろう。
確かに素手で受け止めれば指の骨が砕けるのは間違いない。
素手であるならば……
「なめんな、コラ!」
俺は鉄鞭を握りしめたまま、相手を引き寄せた。傘の男の身体が泳ぐ。
素早く周囲をうかがい、他に襲撃者がいないことを確認する。
引きずっていたジェラルミンケースから左手を離した。これで両手が使える。
体勢の崩れた男の鼻に左ジャブを叩き込む。
「くっ」
男は抵抗する素振りを示しながら、長い前髪の奥に潜む焦点の合わない三白眼で俺を睨んだ。
男の鼻の穴から血が滴る。
俺は構わず一呼吸で左のジャブを二発、同じ場所に正確に叩き込んだ。
男の手の力が緩み、俺は右手に握った鉄鞭を男から奪い取ることに成功した。
〈やったか!〉
一瞬の油断をつくように相手は横蹴りを放つ。
しかし重心が流れて威力に欠ける。
右手で相手の蹴り足を払い、直線的な蹴りをかわして左斜め前に出る。
間合いが詰まった。
俺は躊躇した。右手を使うのはやばい。
しかし、勝機を逃したくはなかった。
俺は相手から奪った鉄鞭を投げ捨て、自然な流れで相手のボディーに腰の入った右フックを叩き込む。
硬いゴムのような手ごたえとともに相手の身体は、くの字に曲がった。
それなりに腹筋を鍛えているらしいが、俺の右手の前では無意味だ。
男は、がっくりと膝をつくと反吐を吐いた。
顔が真っ青になり、身体が小刻みに痙攣する。
決着はついた。
俺は慌ててシェパードの方に視線を転じた。
中型バイクは歩道に横倒しになっており、シェパードは相手の胸ぐらをつかんで、持ち上げていた。
フルフェイスのヘルメットの男は宙で足をばたつかせ、必死に抵抗する。
ヒューマノイドの対応として、ここまではセーフだ。
しかし、逆に、これ以上相手を痛めつけることは『人間に危害を加えること』に該当するため、普通のヒューマノイドにはできなかった。
俺は二人に近づくと、樹脂カバー付きの手錠を腰のフックから外し、ヘルメットの男の腕をつかんだ。
ヘルメットの男は足をばたつかせて俺を蹴ろうとしたが手荒く払いのける。
その衝撃で先ほど鉄鞭で殴られた脇腹が痛んだ。
俺は苦痛に顔をしかめながら、ヘルメットの男に後ろ手で手錠をかけた。
「畜生!」
悪態をつく男をシェパードは丁寧に地面に転がすと、腰の手錠を外して俺が倒した男の方に向かった。
拘束するためだ。
シェパードはうつ伏せに倒れている傘の男を少しの間観察し、俺の方に振り向き無表情に言った。
「息をしていない」
「はっ?」
冗談かと思ったがヒューマノイドのシェパードはこの手の冗談は言わない。
確かに傘の男はピクリとも動かなかった。
「やべえ!」
悪党とはいえ、さすがに殺しちゃマズイ。
右手で殴ったのはまずかったかと、思わず右手を見つめた。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「もう、警察が来るのか!」
できたらこの場から逃げてしまいたいという俺の微かな望みは無残に打ち砕かれた。
「私が通報しておいた」
暴漢と闘いながら同時に警察に通報するなんて、ヒューマノイドならではの芸当だ。
シェパードは、携帯端末を手に取りだして操作することも、声を出すこともなく、体内にある通信装置で一一〇番通報をすることができるのだ。
賞賛に値する行動と能力だが、俺は心の中で叫んだ。
〈この馬鹿野郎!〉
「救急車も呼ぶ必要が生じたな」
俺が動揺していることには、まるで気づかないらしく、シェパードは冷静に言葉を続けていた。