29 父母
「ではどうぞ。祭壇前までご案内いたします」
老宮司は率先して前へ。両親の次に響也と遮那堂かほるが並び、挟んで巫女は一番後へ回った。
申し合わせは無かったが、彩は俯き加減で視線を上げぬまま、黙って響也達の背中に付き従う。
道場の回廊へ上がれる場所は二箇所あり、境内小鳥居側の昇段ほか、玄関付近母屋から伸びる渡り廊下。建物寄りに設けられた小階段を上れば、道場の周回縁へアクセスすることが出来た。
最も近い渡り廊下脇の階段から、一行六人は履物棚に靴を置いて登り、道場回廊を左折して凜子が待つ本殿方向の大神棚へ進んで行く。
道場縁に足を踏み入れた途端、彩は身の粟立つ違和感と重大な過ちを覚った。
――迂闊なり…………! 凜子殿の霊力は、親御両より肖られしものであったか。
不慮の状況悪化で、少女は足元が崩れ去るのを感じた。
生まれついて高い霊格を持つ者は、触媒として自覚無く、邪悪な存在から利用される。
明確な瘴気が周囲へ漲り、妖魔はこの結界域内でも異能者の霊力を牽き出して、我が庭の如く物理攻撃が可能となった。
遮那堂かほるが天井をちらりと見上げる仕草をして、後の彩を振り返る。響也すら異常を察知していた。
歩くたび、普段より床がミシリと鳴ったり〈パチッ〉と小さな弾ける音がする。
そのうち足元だけでなく、廊下角隅の方で木を裂く様な音が頻々と鳴りだす。
ギクリとする大きく不自然な音。案内される両親も、かなり気にしている様子だ。
(嫌な雰囲気だぜ。ひょっとして、家が倒壊する前兆じゃねえの?)
何事も無頓着な孫が不安を感じる程なので、祖父は道場回廊へ踏み込んだ時点で異変を察したが、凜子の両親や遮那堂かほるを伴っている。
しかも唯一人頼れる少女は、最後部であった。
差し当たり、祭壇まで到達する事が先決と判断した。上目遣いで天井を見ながら素知らぬ顔で歩を進め、小さく祭文を唱え始める。
「謹請天神七代地神五代、地祗八百万神等降臨此座無上霊宝神道加持。謹請東方甲乙青帝龍王、謹請南方丙丁赤帝竜王、謹請西方庚申白帝龍王、謹請北方壬癸黒帝龍王、謹請中央――」
祭壇の間に通る引き戸前で、老宮司は歩みを止めた。静黙して振り返ると会釈し、引き戸を開け中へ入る。
老宮司に続き、俯いて戸口を潜ろうとした凜子の父親は、視線を上げると目前を黒い壁で遮断され、低く呻いてたじろいだ。
面妖な事態で咄嗟の判断が付かず、口を開いて啞然と見つめている。
「ご免なさい。ちょっと、失礼します」
脇から進み出た響也が左手を部屋へ差し入れると、何の手応えもなく潜れた。
ところが中は墨汁みたいに真っ黒で、腕が切れて見える。慌てて引っ込めると繋がっていた。彼は思わず手の平をグウ、パーと二度結んでは開いて、動作を確認した。
嘱目しながら追随する彩は、主君・響也の危急を察知して、叫んだ。
* * *
(やばい!)思った時はもう手遅れだった。
行く手を塞がれ、後へ引いた凜子さんの両親が動けないのを見かねて、何も考えず自分が手を突っ込んで確かめたが、これはまたしても異常事態らしい。
専門家の彩を振り返ろうとして「御主君」と叫ぶ声が聞こえたのと同時に、黒い何かが俺の視界を塞ぎ、全身を包み込まれた。
* * *
『 ご主君さま!! 』
叫んで近づこうとした瞬間、此方を振り返って見た響也の顔は、螺旋状の黒い幕で遮られ消えてしまい、直後伸ばした指先も触れる事なく、出遅れてしまった。
彩は狼狽し絶望的な気持ちで、黒く堅い殻へ両手を這わせ探るうち、これが化生の罠でないと判った。
(もしや、ご主君っ……自ら角大師を携行しておられたか)
頭部から触覚状の角を生やし、全身が黒一色で描かれた慈恵大師の魔除け札が、脳裏をよぎる。
――やはりお血筋なのだ。この方は天与の才をお持ちだ。たとい元三大師の加護を得ようと、凡庸な者が顧慮せず、自身を守る力を発現できようものか!
平常を取り戻した彩は目を瞑り、愛おしげに黒く細長い繭状のそれへ、額を当てて念じた。
(ご主君様、是なる内に居られる限り安泰でございます。暫しの間、ご辛抱あそばしませ)
直立した黒い楕円形の容れ物は、見方を変えれば全体が頑丈無比な鎧だ。
「彩ちゃん、響也はっ!? これ一体なんなの?」
傍らの夫妻同様、事情を吞み込めない遮那堂も、困惑交じりな顔で訊ねる。
「親御両どの、この場から決して動かれませぬよう。すぐ戻ります故、お待ちを。中へ入ってはなりません! 戻れなくなりまする。この事、どうか含み置きくださいまし」
凜子の父は、驚愕した表情のまま無言で頷き、母は「こ、此処でいいのね」と足元を指し示し、数度首を縦に振った。
残る懸念は一つ。徳ありて武装せざる者の護りである。
「かほる殿、こちらへ」
彩は言うと、遮那堂の手を取り元来た道を引き返して、道場反対側の参道を目指した。
「気分はどうぢゃ、凜子くん。大事無いか?」
全方向に氣を配りながら身構える老宮司は、力強い口調で白装束の美大生へ問いかける。
綱で囲われた祭壇前。星形の図形が描かれた床上で、彼女は不安げな面持ちで座っていた。
「今の所は平気ですが…………何ですか急に。どこなんです、此処は?」
「この襞を見た限りでは、化け物の体内。腹中のようぢゃな」
赤銅色で滑りと艶を帯びる、皺だらけの周囲へ視線をくれて、老宮司は言った。
すると地面の幾つもの箇所が気泡状に盛り上がり、急激な速度で膨張し始めた。
最初は理解出来ず声もなく見つめていた凜子も、それが肩・胴・両腕、両足の形を整えて行く過程を見て、直ぐ人の姿をした異質な存在と知り、咽の内で短い悲鳴を発した。
怪人達はゆっくり上体を擡げ立ち上がる。
周囲と同様の赤銅色で、華奢な体形から筋肉質へと変化を遂げた。両肩の間から首みたいな突起が伸びるのみで、頭部はない。
形容するなら〝無頭人〟だった。
表情は判らないが、凜子に背中を向けた老宮司は蹲踞の姿勢をとり、騎馬型で構えている。
「どうやら最初から響也狙いで、ワシらは隔離されたようぢゃの。出て来たのが消化液でなくて良かったぞい。有無を言わさず、溶かされる事はなさそうぢゃ」
上下揺すって全身を解しながら、真面目な声で冗談めかした科白を言った。
「でもっこの気味悪いの、なんとかなるんですか?!」
「せねばなるまい。凜子くん、そこから出てはならんぞい。その結界内へおる限り、魔物の手は及ばん」
「他のみんなは?」
「彩がおるから、心配はない(……筈ぢゃ。そう信じる!)」
響也は周囲を白い靄に包まれ、意識まで霞がかかった状態で一人立っていた。
時々、プリズム状の発光が薄く靄の一部を走るが、すぐ消えてしまう。近くだか遠くだかは定かでない。
自分はもっと狭い空間へ閉じ込められた気もするが、最初抱いた程の不安はなかった。
それどころか、胸の中心辺りを安堵感で包まれ、意識が広がってゆく。小さな自分と大きな自分が別れ、周りの広大な空間を見渡すという、説明しづらい不思議な感覚でいる。
別の表現を借りれば、穏やかで優しい気分。不安を抱かず拘りもない心、赤ん坊みたいな――――
……響也は瞼まで重く感じ目を閉じて、暗闇の中余韻を引く小さな鈴の音を聴いた。
(チヨか? …………いや。アイツに鈴なんて付けたことは無かった)
まもなく周囲で、誰か会話する微かな声が聞こえ始めた。
どんな内容かは聴き取れない、幾つもの囁きが伝わってくる。それでも心安らかで、気味悪さはまったく感じない。
突然脈絡もなく、画像みたいなものが目の前へ現れた。
波打ち平面上でない靄の銀幕に投影されている。下から滲み出す様で色調も淡く薄めだが、動いていた。
幸せそうな微笑を浮かべる若い男女が、何かを覗き込みながら会話する姿と分かった。
時折互いの目を合わせて話す二人の様子を見ていると、何故か心地よく暖かな感情が流れ、懐かしい気持ちが胸いっぱい広がった。
(あれはっ……もしかしてあの二人、俺の父さんと母さんじゃないか!?)
理由が解らぬまま、響也はそう確信し呼び掛けた。ところが思う通り声が出ない。もどかしくも、渾身の力を込めて叫んだ。
「 父さんっ! 母さんじゃないの!? 俺、ここっ、此処だよ!! 」
凜子の父・鞍馬研作は判断が付きかねている。
今、黒い蛹みたいな殻の中へ閉じ込められた少年がした様に、部屋へ指先を入れては引っ込めて確かめたあと、ゆっくりと頭だけを突っ込んでみたりした。
「お父ちゃんっ」
妻の佐奈絵が驚いて、心配そうに小さく叫ぶと「ぷはっ」と夫は首を出した。
「いったい何しとるん?!」
「今言ったの、聞こえなんだか?」
彼女は、何も聞こえなかった。とかぶりを振ることで返答した。
「変やで。中は真っ暗やし、思いっきりどやいだけど、自分の声すら聞こえんのや」
この部屋は不可思議かつ奇妙奇天烈。普通の状態でないのは、間違いない。
先ほど若い巫女がこの場所から動くな、部屋の中へ入れば戻れなくなる。と言ったが、老人の方は出て来られるのか。また、あらかじめ居たという自分の娘はどうしているのか? 腑に落ちない事だらけだ。
「佐奈絵、境内の他へ探しに行ってみよか。誰かおるかもしれんぞ」
「せやけど、動かずこの場で待つよう言われたし」
そのとき呼ばれた気がして、ふいと向かい側へ目を向ける。
枯山水の庭を挟んだ母屋右方の縁側上。ついさっき、真っ黒い部屋の中に消えた筈の老人が立っていた。




