表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/129

1 晴明陣






         母に捧ぐ








 挿絵(By みてみん)

 千本通の泥濘に叩き付ける大量の雨粒が砕け、霧散して白い靄となり、視界を遮っていた。


 雨中で立烏帽子をつけた、狩衣姿の男が立っている。


 齢三十路余り。

 色白く細い眉・鼻筋の通った一見して中性的儚げな相貌でありながら、半眼へ周章の色映えを見せず、沈着そのもの。

 ――――御世珍しき長身の体躯は、英姿端然にしてるい弱の俤は無い。


 周囲は凡そ闇の帳で覆われ、彼の総身だけが燈明を受けるが如き光を帯び、浮き上がっていた。


 この旧朱雀大路は道幅二十八丈(84m)。

 平安京の幹線であったが、右京域の衰退以後は縮小。柳並木と垣、その向こうは貴族の館・衙門が軒を連ねたと伝わるが、現在は築地塀も崩滅し、東寺講堂の平降りな大屋根だけが闇を見渡す、町外れの平原である。


 だがこの場へ居合わせた者在れば、不条理窮まって色を失うだろう。


 男の目前七間余り先で立ち塞がる、奇怪な一頭の巨獣の姿があった。


 大地を捉える鉄の爪と、巨柱然とそそり立つ強靱無比な四肢から、凄まじい瘴気の渦を発散させている。


 赤く切り裂かれた形状で吊り上がった凶眼。小さく縦長の黒い瞳が男を上目遣いで見据え、捲れあがる口吻から巨大且つ鋭利な牙の先端が覗き、身の毛もよだつ不吉な低音で唸り声を響かせているのだった。


 それだけではない。

 男の両脇で一定の間隔を擱いて、眉のない白い顔をした童男おぐなわらわ女が、右回りで周囲を巡っている。


 各々、振分の束髪と尼削ぎ。双方とも童水干を着た小舎人こどねり童の態だが、背丈は二尺程と小さき姿のそれが、前に屈んで体を窄めたと思うや、両袖を突き広げて跳ね起き、或いは左右へ蹌踉めき泳ぎつつ、彼を中軸にして対面する位置・距離とを保ちながら、まるで遊戯を舞うが如く円を描いているのである。


 熟視すれば、この篠突く勢いを彷彿させる雨中へ立つ身が、全く濡れた気配さえ無い。狩衣の折り目も瞭然として、乾燥し切っている。


 目に見えぬ庇が雨を弾いているのではない。

 男の周囲・半球形と思しき空間の範囲だけ、触れる事無く水滴が何処かへ消える。そう見受けられた。


 彼と対峙する異形の存在は、荒廃の果てに消滅した、かの羅城門跡へ背を向け立ちはだかり、その後ろから先は総てが暗闇に閉ざされていた。


 対手は一見狼の姿だが、大きさはまるで異なる。


 牛車より軽く頭四つ分を超える体径、全身を覆う黒い獣毛。

 憎悪で煮えたぎる真っ赤な目、大きく裂けた口と額から蒼鈍の一角が突き出して、それが絡み伝う雨のため油の様な光沢を帯びていた。

 尾はそれ自体が独立した三匹の蛇という姿で、各々先端が二股へ割れた滑らかな薄紅の舌を、時折口から覗かせる。


 しかし、決して初めからの妖獣ではない。


 之も元は『天人』と呼ばれる存在であった。 


 遥か昔天帝の恩恵に浴し丹心仕え、人とよく似て非なる美麗凛々しき姿を持つという外見は今――――心を闇で遮蔽され、無残な浅ましさ。醜怪かつ、兇々しき異様の獣へ変貌している。


 嘗て神仏が聖魂傾注して愛でし被造物とは、想像すら及ばぬ全容だ。


 魔獣の放射する強力な敵意の波動は、妖気なる程度の表現に全くそぐわぬ狂気。

 底知れぬ闇の淵・光と反対のもの。

 男の全身へその強烈な圧迫を加えている筈であるのに、彼の眉目秀麗な面相は全く無表情。

 元より内包していないのか、恐怖や動揺・或いは対照的な、押し潰されまいとする気魄や敵愾心など、感情の焔はまるで伺えない。


 奇怪な獣が咆哮し、雨と空気が激しく振動する。

 憎悪と憤怒の思念が細流から本流へ、自らの内に渦巻く殺念を体躯へ漲らせ、その束を凝縮した〝矢〟を男に向け放つ。


 それ自体が見えたのでは無い。

 降りしきる雨を高速で鋭く切り裂いた痕が、黒い軌跡となって趨るので、一目瞭然である。


「榊」


 男が呟くと、真後ろへ侍る童子がさっと小さな四肢を拡げ、立ちはだかる姿勢を取った。


 直後、鬼神から発した無明の矢は、彼まで到達すること無く雨粒同様消える。

 矢はかさね打ちに放たれているが、男の目前へ達すると、中和されるが如く忽ち消失した。


「梓」


 彼は再び、よく透る声音で呟く。


 次は尼削ぎの童女。男の眼前に背を向けて立ち、両袖を広く振り上げて刮目するや、掲げた両手の先を合わせる形で、須臾しゅゆと対峙する魔獣へ振り降ろす。


 瞬間、頭上・左右より光の矢が三条。

 前後僅かの間隔で先程鬼神の放った黒き矢と、同じ軌跡を辿って奔る。

 巨獣の強剛な体幹は衝撃で震え、四肢が軋み寸分沈んだ。


 …………低い呻吟の唸り。


 魔性の獣とて、防護の術を駆使していた。

 だが光は闇を駆逐。皮肉を削ぎ剔った事は、胴から脚を伝う黒血が雨に叩かれ、泥へ混ざりゆく様から自明であった。


 魔獣は苦痛のため押し広げた口元から歯茎を覗かせた。食い縛り交互に合わさった牙を剥き出して、一層の憤怒と火怨を身内へ増幅させる。


      挿絵(By みてみん)


 不快な低音質の唸り声は、激しい雨音に掻き消される事無く、男の立つ場所まで届いていた。


 敵対者の意識の波長。邪悪な想念の語彙が、彼の胸襟へ次々と伝達される。

 それは重々しい磐を摺り合わせ、地の底から染み出す黒烟を彷彿とさせる、低い濁声。


 無論、空波が鼓膜を振動させる音声では無かった。


 鬼獣の冷酷加虐な本質を、彼の感応力が印象として構築したものだ。

 激烈な黒い思念波が蜿蜒えんえん伝えるのは、男の肉体を微塵に打ち砕かんと欲する獰猛な破壊本能であり、唯【 ――殺・――潰・――滅・――死―― 】のみであった。


 迷いや葛藤の多い者、心へ闇を抱える者ならば、これだけで脳細胞を破壊され発狂。或いは胸を穿孔される苦痛に堪えかね、斃れる。


 彼は無表情。露聊かも応える事なく、泰然自若。

 否、負の念信への返礼と言わんばかり、々と印を結びつつ、能遮(陀羅尼)を唱朗する声は淀みもない。


 煽り立てる情の揺らぎが無い。付け込むべき隙が、寸毫微塵もない。


 放射される怨念の渦中を、男は『捧げ』の姿勢で受け流し、対手に返すのみであった。  

 物理干渉も霊的波動も無力。それは疎か、己を刺す自傷行為と等しい。


 放った呪詛の念信が内より自身を切り苛み、灼熱と極寒が交互で総身へと襲い掛かる。


 【( 焦・苦・凍・痛・思・何・奴? 何・何? 懼 ? ――? ――? ――?! )】


 微かでも灯った疑問という叡智の光が、闇に大きな亀裂を生じさせた。


 刹那、男の〝目の中〟へ吸い込まれた鬼獣は、彼の意識下奥底の光景を垣間見た。

 その時、己の中枢に――茫漠な大地へ茂る蘆荻が、風にそよぐ孤影悄然たる心象――それが全域へ拡がる。


 いま獣は男の眼中で、広大且つ場違いな其処に、ただ忽然と立っていた。


 【( ――何・疑・何! 何奴何!! 恐・疑・怖・怖――恐! 怖! 怖怖怖怖!! )】


 怨念の対象、恨み骨髄の敵として知り尽くしている筈の者。

 今更ながらあたわぬ異質な存在への畏怖が増大、焦燥として噬臍ぜいせい。視線は彷徨い焦点も定まらず、眼界の男が朧々と翳む。


 間断なく真言を唱え続けてきた男は、親指を握り突き立てた左手人差指を、右手の同じ指先と親指頭を合わせた金剛拳で包み隠し、全行程を締結した。


 それは『大日如来印』であった。



「 臨むる兵、闘ふ者、皆陣烈れ前に在り。オン・アビラウンケン・バザラダト・バン 」



 男が呪を呟き、刀印で素早く五芒星を描いた途端――――――。


 魔獣は己の周辺が、同じ形象の光を以って囲繞いにょうされ往く状相を察知し、戦慄した。

 此まで損じた強襲と斉しく、存在すら脅かす神威の煌めきが、全方位から炸裂せんとしている。



 【( 照・烈!! 熔解・滅・滅・滅滅滅滅滅――滅滅滅――・――破・滅――!! )】



 元より、自己保存本能の結晶たる魔獣の中枢で、虚無への恐怖が現象化し、計り知れぬ苦痛となって一気爆発した。


 【( 憎・朔――――…… )】


 呪詛を呟く短い思念波が男の中に伝わった瞬間、鬼神の姿は突如消え失せた。

 それは唯一の逃げ場であった地下への、形振り構わぬ必敗回避である。


 …………遂に闇の眷属は、男への攻撃すべてを諦め、遁竄したのか。







 【(――――)】






 否、そうではない。


 新たな攻撃の対象が思念として伝達されてくる。



 それは彼の嫡流。子孫である事を現していた。


 【及ばざるなら、手が届く者を破砕する】

 悪鬼は切歯扼腕のどす黒い憎悪を籠めて、そう宣言していた。



 先程まで滝の様な勢いで地を叩いていた雨は、男の鬢を心做し揺らめかす微風と共に、後方へ遠ざかって行った。


 彼の周りを遊ぶが如く舞っていた童男童女の姿は、最早何処にも見当たらない。



 (私は予て、くすしき者を我が末孫の許へ遣わした。…………血と灰燼の中より見いだせし掌中の珠を、未知なる流れの末に送り出したるものなり)



 静まりかえった闇中。後は蕭然とした空の下、彼のみが残されていた。

 天空では、先程まで見えなかった星々が一面へ湛えられ、降り注がんばかり瞬いている。


 見上げていた男の口から、やおら声が洩れた。



「お前は五色に彩られし光の子。吾と我が末裔の希望である」



 落ち着いた涼やかなる囁きで彼は独りごちた。


 そこへ、切なる響きが籠められていた。


 嘗ての朱雀大路を濡らした冷ややかな水滴は、間なしに地へ染み入り、虫の音が囂しく鳴り出すであろう。


 彼は一人静かに、天空の星々を見つめ続けていた。



 ――お前は息災であるか。



 明鏡止水そのものと思われた男の胸中へ、今は感慨という揺らめきが生じていた。仄かではあるが確実に。……それでも後事を託し、送り出した決断への憂いは、一切無かった。



 彼の嫡統の存否は、自らが信憑する珠玉の一女に委ねられたのである。


プロローグを読んで戴きありがとうございます。

以降もお付き合いよろしくお願い致します。

気に入って戴けましたら、評価とブックマーク登録もよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ