1 晴明陣
千本通の泥濘に叩き付ける大量の雨粒が砕け、霧散して白い靄となり、視界を遮っていた。
雨中で立烏帽子をつけた、狩衣姿の男が立っている。
齢三十路余り。
色白く細い眉・鼻筋の通った一見して中性的儚げな相貌でありながら、半眼へ周章の色映えを見せず、沈着そのもの。
――――御世珍しき長身の体躯は、英姿端然にして羸弱の俤は無い。
周囲は凡そ闇の帳で覆われ、彼の総身だけが燈明を受けるが如き光を帯び、浮き上がっていた。
この旧朱雀大路は道幅二十八丈(84m)。
平安京の幹線であったが、右京域の衰退以後は縮小。柳並木と垣、その向こうは貴族の館・衙門が軒を連ねたと伝わるが、現在は築地塀も崩滅し、東寺講堂の平降りな大屋根だけが闇を見渡す、町外れの平原である。
だがこの場へ居合わせた者在れば、不条理窮まって色を失うだろう。
男の目前七間余り先で立ち塞がる、奇怪な一頭の巨獣の姿があった。
大地を捉える鉄の爪と、巨柱然とそそり立つ強靱無比な四肢から、凄まじい瘴気の渦を発散させている。
赤く切り裂かれた形状で吊り上がった凶眼。小さく縦長の黒い瞳が男を上目遣いで見据え、捲れあがる口吻から巨大且つ鋭利な牙の先端が覗き、身の毛もよだつ不吉な低音で唸り声を響かせているのだった。
それだけではない。
男の両脇で一定の間隔を擱いて、眉のない白い顔をした童男と童女が、右回りで周囲を巡っている。
各々、振分の束髪と尼削ぎ。双方とも童水干を着た小舎人童の態だが、背丈は二尺程と小さき姿のそれが、前に屈んで体を窄めたと思うや、両袖を突き広げて跳ね起き、或いは左右へ蹌踉めき泳ぎつつ、彼を中軸にして対面する位置・距離とを保ちながら、まるで遊戯を舞うが如く円を描いているのである。
熟視すれば、この篠突く勢いを彷彿させる雨中へ立つ身が、全く濡れた気配さえ無い。狩衣の折り目も瞭然として、乾燥し切っている。
目に見えぬ庇が雨を弾いているのではない。
男の周囲・半球形と思しき空間の範囲だけ、触れる事無く水滴が何処かへ消える。そう見受けられた。
彼と対峙する異形の存在は、荒廃の果てに消滅した、かの羅城門跡へ背を向け立ちはだかり、その後ろから先は総てが暗闇に閉ざされていた。
対手は一見狼の姿だが、大きさはまるで異なる。
牛車より軽く頭四つ分を超える体径、全身を覆う黒い獣毛。
憎悪で煮えたぎる真っ赤な目、大きく裂けた口と額から蒼鈍の一角が突き出して、それが絡み伝う雨のため油の様な光沢を帯びていた。
尾はそれ自体が独立した三匹の蛇という姿で、各々先端が二股へ割れた滑らかな薄紅の舌を、時折口から覗かせる。
しかし、決して初めからの妖獣ではない。
之も元は『天人』と呼ばれる存在であった。
遥か昔天帝の恩恵に浴し丹心仕え、人とよく似て非なる美麗凛々しき姿を持つという外見は今――――心を闇で遮蔽され、無残な浅ましさ。醜怪かつ、兇々しき異様の獣へ変貌している。
嘗て神仏が聖魂傾注して愛でし被造物とは、想像すら及ばぬ全容だ。
魔獣の放射する強力な敵意の波動は、妖気なる程度の表現に全くそぐわぬ狂気。
底知れぬ闇の淵・光と反対のもの。
男の全身へその強烈な圧迫を加えている筈であるのに、彼の眉目秀麗な面相は全く無表情。
元より内包していないのか、恐怖や動揺・或いは対照的な、押し潰されまいとする気魄や敵愾心など、感情の焔はまるで伺えない。
奇怪な獣が咆哮し、雨と空気が激しく振動する。
憎悪と憤怒の思念が細流から本流へ、自らの内に渦巻く殺念を体躯へ漲らせ、その束を凝縮した〝矢〟を男に向け放つ。
それ自体が見えたのでは無い。
降りしきる雨を高速で鋭く切り裂いた痕が、黒い軌跡となって趨るので、一目瞭然である。
「榊」
男が呟くと、真後ろへ侍る童子が颯と小さな四肢を拡げ、立ちはだかる姿勢を取った。
直後、鬼神から発した無明の矢は、彼まで到達すること無く雨粒同様消える。
矢は襲打ちに放たれているが、男の目前へ達すると、中和されるが如く忽ち消失した。
「梓」
彼は再び、よく透る声音で呟く。
次は尼削ぎの童女。男の眼前に背を向けて立ち、両袖を広く振り上げて刮目するや、掲げた両手の先を合わせる形で、須臾と対峙する魔獣へ振り降ろす。
瞬間、頭上・左右より光の矢が三条。
前後僅かの間隔で先程鬼神の放った黒き矢と、同じ軌跡を辿って奔る。
巨獣の強剛な体幹は衝撃で震え、四肢が軋み寸分沈んだ。
…………低い呻吟の唸り。
魔性の獣とて、防護の術を駆使していた。
だが光は闇を駆逐。皮肉を削ぎ剔った事は、胴から脚を伝う黒血が雨に叩かれ、泥へ混ざりゆく様から自明であった。
魔獣は苦痛のため押し広げた口元から歯茎を覗かせた。食い縛り交互に合わさった牙を剥き出して、一層の憤怒と火怨を身内へ増幅させる。
不快な低音質の唸り声は、激しい雨音に掻き消される事無く、男の立つ場所まで届いていた。
敵対者の意識の波長。邪悪な想念の語彙が、彼の胸襟へ次々と伝達される。
それは重々しい磐を摺り合わせ、地の底から染み出す黒烟を彷彿とさせる、低い濁声。
無論、空波が鼓膜を振動させる音声では無かった。
鬼獣の冷酷加虐な本質を、彼の感応力が印象として構築したものだ。
激烈な黒い思念波が蜿蜒伝えるのは、男の肉体を微塵に打ち砕かんと欲する獰猛な破壊本能であり、唯【 ――殺・――潰・――滅・――死―― 】のみであった。
迷いや葛藤の多い者、心へ闇を抱える者ならば、これだけで脳細胞を破壊され発狂。或いは胸を穿孔される苦痛に堪えかね、斃れる。
彼は無表情。露聊かも応える事なく、泰然自若。
否、負の念信への返礼と言わんばかり、縷々と印を結びつつ、能遮(陀羅尼)を唱朗する声は淀みもない。
煽り立てる情の揺らぎが無い。付け込むべき隙が、寸毫微塵もない。
放射される怨念の渦中を、男は『捧げ』の姿勢で受け流し、対手に返すのみであった。
物理干渉も霊的波動も無力。それは疎か、己を刺す自傷行為と等しい。
放った呪詛の念信が内より自身を切り苛み、灼熱と極寒が交互で総身へと襲い掛かる。
【( 焦・苦・凍・痛・思・何・奴? 何・何? 懼 ? ――? ――? ――?! )】
微かでも灯った疑問という叡智の光が、闇に大きな亀裂を生じさせた。
刹那、男の〝目の中〟へ吸い込まれた鬼獣は、彼の意識下奥底の光景を垣間見た。
その時、己の中枢に――茫漠な大地へ茂る蘆荻が、風にそよぐ孤影悄然たる心象――それが全域へ拡がる。
いま獣は男の眼中で、広大且つ場違いな其処に、ただ忽然と立っていた。
【( ――何・疑・何! 何奴何!! 恐・疑・怖・怖――恐! 怖! 怖怖怖怖!! )】
怨念の対象、恨み骨髄の敵として知り尽くしている筈の者。
今更ながら敵わぬ異質な存在への畏怖が増大、焦燥として噬臍。視線は彷徨い焦点も定まらず、眼界の男が朧々と翳む。
間断なく真言を唱え続けてきた男は、親指を握り突き立てた左手人差指を、右手の同じ指先と親指頭を合わせた金剛拳で包み隠し、全行程を締結した。
それは『大日如来印』であった。
「 臨むる兵、闘ふ者、皆陣烈れ前に在り。オン・アビラウンケン・バザラダト・バン 」
男が呪を呟き、刀印で素早く五芒星を描いた途端――――――。
魔獣は己の周辺が、同じ形象の光を以って囲繞され往く状相を察知し、戦慄した。
此まで損じた強襲と斉しく、存在すら脅かす神威の煌めきが、全方位から炸裂せんとしている。
【( 照・烈!! 熔解・滅・滅・滅滅滅滅滅――滅滅滅――・――破・滅――!! )】
元より、自己保存本能の結晶たる魔獣の中枢で、虚無への恐怖が現象化し、計り知れぬ苦痛となって一気爆発した。
【( 憎・朔――――…… )】
呪詛を呟く短い思念波が男の中に伝わった瞬間、鬼神の姿は突如消え失せた。
それは唯一の逃げ場であった地下への、形振り構わぬ必敗回避である。
…………遂に闇の眷属は、男への攻撃すべてを諦め、遁竄したのか。
【(――――)】
否、そうではない。
新たな攻撃の対象が思念として伝達されてくる。
それは彼の嫡流。子孫である事を現していた。
【及ばざるなら、手が届く者を破砕する】
悪鬼は切歯扼腕のどす黒い憎悪を籠めて、そう宣言していた。
先程まで滝の様な勢いで地を叩いていた雨は、男の鬢を心做し揺らめかす微風と共に、後方へ遠ざかって行った。
彼の周りを遊ぶが如く舞っていた童男童女の姿は、最早何処にも見当たらない。
(私は予て、奇しき者を我が末孫の許へ遣わした。…………血と灰燼の中より見いだせし掌中の珠を、未知なる流れの末に送り出したるものなり)
静まりかえった闇中。後は蕭然とした空の下、彼のみが残されていた。
天空では、先程まで見えなかった星々が一面へ湛えられ、降り注がんばかり瞬いている。
見上げていた男の口から、やおら声が洩れた。
「お前は五色に彩られし光の子。吾と我が末裔の希望である」
落ち着いた涼やかなる囁きで彼は独りごちた。
そこへ、切なる響きが籠められていた。
嘗ての朱雀大路を濡らした冷ややかな水滴は、間なしに地へ染み入り、虫の音が囂しく鳴り出すであろう。
彼は一人静かに、天空の星々を見つめ続けていた。
――お前は息災であるか。
明鏡止水そのものと思われた男の胸中へ、今は感慨という揺らめきが生じていた。仄かではあるが確実に。……それでも後事を託し、送り出した決断への憂いは、一切無かった。
彼の嫡統の存否は、自らが信憑する珠玉の一女に委ねられたのである。
プロローグを読んで戴きありがとうございます。
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