無声慟哭
部屋を出て、耳を塞ぐ。
その部屋から聞こえてくる音を、耳が拾わないように。
強く、強く、押さえる。
それでもなお届く世迷言。
半ば逃げるように、隣にある己の部屋に入ろうとする。
しかし、誰かの気配を感じてその伸ばした腕は止まった。
焦るようにその気配がする方を向くと、そこにはとある人物が立っていた。
「泣いておるようじゃの。お主も中々酷なことをしよる」
「イリシア……」
とある人物とは、俺の犠牲者であるイリシア。
寝間着の上からいつもの色褪せた茶色いローブを着ているようで、少し寒そうな感じだった。
イリシアは全て分かっているという優しい笑みを浮かべており、その優しいはずの笑みがどこか怖かった。
分かっていると思うが、今の精神状況じゃとてもイリシアの相手が出来そうではない。
今は早くベッドに入って頭まで掛布団をかぶりたい気分だ。
「……イリシア、俺は……」
「言わずとも分かっておる。大丈夫じゃ、ラルは強い。明日に支障をきたすことはあるまい」
「……済まん」
「なにゆえ妾に謝る? それに、おそらくお主はラルに謝ったはずじゃ。お主が謝る必要な無い」
イリシアの優しさが傷に滲みる。
思わず涙腺が緩みそうになるが、グッと堪えて大きく息を吐き出すにとどまった。
今までこんなことは無かったのに、今までこんな感情を知らなかったのに、なんでこんなにも申し訳ない気持ちになるのだろう。
他でもない、イリシアに。
「そうじゃ、眠いのを少し堪えて……散歩でもせぬか? 昼間に、ゆっくりできそうな場所を見つけての」
「……わかった」
そうか、今度はイリシアの番なんだな。
無意識的に理解する。この話題になった時から覚悟していたが、犠牲者は何もラル一人ではないのだ。
ここにも、向かい合わなければならない人がいる。
イリシアの少し斜め後ろを歩きながら目的地へと向かう。
その間、イリシアは決して口を開かず、ただ黙々と歩いた。
中庭に出て、その花畑の中を歩いているのにも拘らず、綺麗な花には脇目も振らない。
やがて、中庭を通り過ぎ、神代の端っこまでやって来た。
神代の端は断崖絶壁となっており、そこから覗けば遥か深く雲海が広がっている。
そこは一面の草叢になっており、浮島で地下水源が無いと言うのに青々と茂っていた。
しかし、人の手が加わっていないというわけでもなく、草叢は脛のところまでしか伸びていない。おそらく、定期的に刈っているのだろう。
「ここじゃ。どうじゃ、幻想的じゃろう」
イリシアの言う通り、ここは“夜の神代”のようだ。
西に位置するだろうここは常に夜の地帯。見上げれば月が見え、東の方を向かない限りここは完全に夜だと言えよう。
そんな場所にあるここは、確かに落ち着いて話すにはもってこいの場所だ。
俺たち二人は無造作に転がっている大きな石に腰掛け、月を見上げる。
月は銀色に輝いている。俺たちを見下しながら。
正面を見ると果てなき雲海。
ここがやはり昨日までいた世界とは別の世界なんだと再確認させられる。
ここに来てから何回再確認しただろうか。
「妾はあまり回りくどいのが嫌いでの、率直に申させてもらう」
「あぁ」
「妾はお主に恋い焦がれておる。困ったことに、あの話を聞いてもなお、の」
そう苦笑するイリシアは、ラルと違って翳りは無く、ホントに困ったと思っているようだ。
歯を見せ、年相応に見える笑顔はこの状況になっても色褪せることはない。
それが逆に、不気味だった。
「こうは言うが、妾はお主の答えに何の期待もしておらぬ。理由は言わぬがの。じゃから、お主は気にすることはしないで良い」
「……イリシア、俺はさ、やっぱり――」
「申すなと申しておるじゃろうが。それに、女子の話に水を差すのはあまり褒められたことではないぞ?」
「す、済まん」
隙を生じぬ物言い。
イリシアは一瞬眉を寄せて怒りの表情になったが、俺が謝ると直ぐに穏やかな表情になる。
やっぱりこういうのは途中で口を挟まずに聞いているのが一番なのだろう。
イリシアは少し浮いていた腰を落ち着け、俺から視線を逸らして雲海を眺める。
俺も釣られて雲海を眺めていると、イリシアが浅い溜息を吐いた。
なんだろうと、視線をイリシアに戻すと、イリシアは目を伏せて脚をブラブラと動かしていた。どことなく落ち着かないと言っているようだ。
「なんじゃかのー……バカバカしくなってきおった」
「なにが?」
「この一連のことじゃ。恋い焦がれている者と共におるというのに、何故かムードもへったくれも無いと思っての」
「ムード? 例えば?」
イリシアが口にしたムードの例を訊ねると、イリシアは空を仰いで案を考え始めた。
それを見守っていると、イリシアは良いことを思いついたと言わんばかりに口端を吊り上げた。
俺はこんな表情をしているイリシアには面倒なことしか起こったことが無い。
「そうじゃのぉ、接吻はどうじゃ?」
「それこそムードもへったくれもないな」
「なぜじゃ、定石じゃろう?」
「ありきたりだってこと」
否定すると、わざとかと言わんばかりに頬を膨らます。
その姿はもはやムードの欠片も無く、ただの幼い少女の姿そのものだ。
しかし、あざと可愛いので赦す。
「はぁ……。もう良い、お主に求めたのがバカじゃった」
そう言ってそっぽを向くイリシア。
これもあざといが、おそらく無意識的なことだと思うので何も言わない。
そもそも、イリシアが話を切り出すと思ったが、全然そんな素振りは見せない。
もう少しで欠伸が出そうというときに、唐突にイリシアがこっちを向いた。
欠伸を飲み込み、俺もイリシアを見つめる。このまま、少しの時間が過ぎた。
「……この恋慕は、思い過ごしじゃったのかのぉ……」
「……そういう、ことになるな」
「少しは否定してほしかったのじゃが、そのようなのじゃから何も言えぬの」
この間も、目を離さずに見つめる。
「妾は確信を持っておる。妾はおそらくこの旅の間、恋慕を抱くことのない様にするはずじゃ」
「……」
「他でもない、己の地位を奪還するための旅じゃ。その旅では、恋慕は足枷にしかならぬ。今もそう思っておるからして、これは偽りはない」
そこで視線を逸らし、再び雲海を眺めるイリシア。
しかし、俺はイリシアを見続ける。やがてイリシアは目を瞑り、何か遠い出来事を思い出すかのように空を仰いだ。
その姿は、とてもだが苦悩に満ちる姿には思えない。どことなくスッキリとしている感じだ。
だが、これはイリシアから感じた印象であり、イリシアが考えていることではない。
人の心なんざ、口に出してもらわない限り分かりっこないのだから。
「あぁ、お魎殿には謝らねばならんのぉ。こっちの話じゃから気にせんで良い」
何故だか知らないが、北部勇者育成学校の理事長に謝罪をしなければと言うイリシア。
気にするなと言っているんだから、気にしないでおこう。
「……ふぅ。妾は分かっておった。お主には妾の恋慕を受け止めることが出来ぬのは。お主とて、魔物側……それも【魔王】に付くのは忍びないじゃろう? そのような器でないのは、良く知っておる」
「……あぁ」
「種族間の問題もあるしの。お主と添い遂げるのは……無理じゃと最初から分かっておった。じゃから、せめて、せめてこの旅の間は傍に、その隣で微笑んでおりたかった」
そこから、小さめにだが嗚咽をし始めた。
彼女は滅多なことでは泣かない。とても気丈で、それでいてどこか弱い女性。
彼女は人前では決して泣かない。泣くとしても、それを気取られはしないようにする。
そんな女性が、俺の前で、顔を隠すこともせずに泣いている。
歯を食いしばり、伝う涙が顎に雫を作っても、彼女は拭うことはせずに慟哭を押し殺している。
俺は、そんな己を愛してくれた人に何も声が掛けられなかった。
「妾はの、妾はの、お父さんに申したのじゃ。妾は、初めて心の奥底から愛せる者を見つけることが出来たと。お父さんは『良かったな、おめでとう』と、妾の頭を撫でてくれた……! 妾は、妾は……っ!」
誰に言うでもなく、まるで自分に言い聞かせるように吐き出すイリシア。
月光に照らされ、滴る雫は月明りでキラキラと輝き、やがて黒い地面へと吸い込まれていく。
止めどなく溢れる涙。目は腫れぼったく赤くなるが、その姿はとても美しい。
握られた拳に、皺になるローブ。それは、彼女が愛した証。
「じゃが、じゃが……っ! 誰の悪戯か、その恋慕は最初から偽りであった。それを分からぬ妾ではない。しかし、それでも尚お主を愛する妾がいた! 何度言い聞かせようと、変わらぬ妾がいた!」
嘆き、唾を飛ばす彼女。
鼻水が垂れ、唾を飛ばす姿は、俺が知る彼女の姿ではなかった。
常に【魔王】たる気品を漂わせ、己を着飾ることに余念の無かった彼女が初めて見せる姿。
それは、彼女は普通の女の子であることのただならぬ証拠でもあり、それほどまでに彼女が苦悩しているという証拠。
「恋慕を諦めるということがこんなにも苦しく、難しいものじゃったとは……。妾は知らなんじゃ……」
「……イリシア」
「こんなに悲しいことがあろうか……こんなにもむごいことが未だかつてあったじゃろうか……。そんなもの、どこの歴史にも、どこの話にも、無かった……。叶わぬ恋慕を想うことも赦されぬとは……」
慟哭を抑え、顔を上げる。
「妾は考えた。かつてないほど、頭を使ったのじゃ……」
そして、彼女はこちらを向く。
「そして、導き出した答えがある。アラン、済まぬが少し頼まれてくれぬか?」
顔は涙と汗と鼻水と涎でぐしゃぐしゃ。
しかし、彼女は笑顔だった。いつも俺に向けてくれる、素晴らしい笑顔。
「どうか、どうかお願いじゃ……」
直ぐにでも泣いてしまいそうな笑顔。
それでも彼女は美しく、それでいて可愛らしい。
「妾を……私を、ふってください。お願いします……」
途端に、溢れる涙。
同時に、俺の頬にも何かが伝う感触。
拭うと、それが涙ということが分かる。つまり、俺は泣いていた。
鼻水も出始め、喉の奥から堪え切れない慟哭も出始める。
目を擦っても、口を押さえても出てくる。目を瞑り、鼻を啜り、歯を食い縛ってもしつこく出てくる。
悲しい。悲しい。
何がこんなにも悲しいか。
彼女にこんな酷なことを言わせていることに。
俺が言いたくもないことを言わなければならないことに。
好きなのに、ふらなくてはならないことに。
「……くそったれが」
正直に認めよう、俺はイリシアが好きだ。
ロリコンだとか勝手に言っていろ、俺は彼女が好きだ。
いつの間にか彼女を意識し出し、いつの間にか目で追っていた。
彼女の笑顔を見ることが好きだった。彼女と話すことが好きだった。
困る顔も好きだった。次々と変わっていく彼女の表情を見るのが好きだった。
そして、なにより……彼女の隣にいるのが好きだった。
「っ……っ……」
先ほど、俺はラルに告白された時、能力なんか関係ないと言われた時、俺はイリシアのことが頭をよぎったんだ。
だから、彼女の申し出を断った。俺はラルではなくイリシアが好きだったのだから。
しかし、考えてみればどちらも叶わぬこと。
それはとても悲しいこと。それがとても悲しいこと。
それでも選択しなければならない。
一つしかない選択肢を。
「俺はっ……」
震える声。
鼻が鼻水で詰まり、鼻声になる。
「俺はぁっ……!」
伝えたい。
俺はイリシアのことが好きだと。
しかし、伝えてはならない。彼女の決意を唾棄にしてはならない。彼女の意思を汲んではならない。
それを受け止めることが、俺には出来ないのだから。
代わりに、偽りを伝えなければならない。
「俺はっ、イリシアが嫌いだ!」
嘘だ。
「大っ嫌いだッ!」
大好きだ。
「だからっ! 貴女の想いには応えることが出来ま……せん……!」
最後の方は言葉にならず、言い終えると同時に泣き叫ぶ俺。
顔を両手で覆い、思いっきり泣き叫ぶ。彼女の前で泣くのはこれで二回目。
しかし、数ある記憶の中、こんなにも泣き叫んだことは無かった。
次々と溢れ出す彼女との記憶。
喜んでいる彼女。怒っている彼女。悲しんでいる彼女。楽しんでいる彼女。愛らしい彼女。憎らしい彼女。
その全てが脳裏を掠める。
これが、恋だと言うのなら、愛だと言うのなら、俺は胸を張って言える。
こんなことなら、彼女に会わなければ……よかった、と。
俺の泣き声が辺りを包む中、か細いが良く透き通る声が俺の耳に届いた。
紛れもない、彼女の声だ。
「……ありがとう、アラン……」
俺はこの時、初めて本気で俺を恨んだ。
どこか薄っぺらい感じがするので、おそらく後で修正します。




