広がる髪
夜の帳が下りる頃。
俺の腹から聞こえる虫の音により、そろそろ夕飯にしようという話になる。
しかし、憩場やら村とかではあちこちにある松明に火が灯されるというのが普通だが、ここは違うらしい。窓の外に見える村の光は家の明かりしか見えない。
迷ったら嫌だから店主に詳しい場所を訊いて出よう。
「浅菜、これから居酒屋に行くが、酒は飲むんじゃないぞ」
「分かってますよ。先生は飲むんですか?」
「いんや、俺は下戸だ。更に酒癖が悪いから飲まんよ」
「じゃあ、ただご飯を食べに行くだけですね」
「そゆこと」
宿屋を出る際、店主から地図をもらって居酒屋へ向かう。
宿屋が閉まる時間は日付が変わるころ。まぁ、ただ飯を食うだけだから時間はかからんだろう。
居酒屋に着くと、中からは既に笑い声が聞こえてくるからにはやっているのだろう。
こんな村でも居酒屋があるあたり地元に愛されているんだろうな。
◆ ??? ◆
酒は良い。
気分が高揚し、今日一日有った嫌な出来事を洗い流せるから。
男、アルバス=ラングはその手にあるジョッキを空にして思う。
(なんでこうなったのかね)
なんでとは今日のこと。
己の主と共にドラゴンを討伐しに来たところ、【勇者】を育成する学校からやって来た人外顔が主である貴族に言い寄ってきたことだ。
なんでも男は伝説のバハムートを倒したなどと言っていたが、アルバスは信じていなかった。
むしろ、貴族に言い寄り、おこぼれにあやかろうとする輩にしか見えなかった。
しかし、アルバスの主はあろうことか男の言うことを信じてしまった挙句に、一緒に戦ってくれまいかと打診し始めた。当然アルバスは良しとしない。
「へいらっしゃい!」
店主の活きの良い声に誘われて出入り口の方へ眼を移す。
(ん、あれは今朝の小僧?)
噂をすればなんとやら。
今しがたやって来たのはアルバスの悩みの種である例の男、と一人の少女。学校から着いてきた生徒だ。
今更になってまた込み上げてきた怒り。
しかし、アルバスには今あの男に強く出られない理由がある。
それは今朝あったやり取りのうちの一つ。あの男が女性に扮するということだった。
アルバスは何としてもあの男の化けの皮を剥いでやろうと先を急ぎすぎた結果、あの男を傷つけてしまった。
これにはアルバスもさすがに悪いと思っていた。あの時の完全に女性と化した男の恐怖に怯えた表情がアルバスの脳裏を掠める。
(……やはり、もう一度謝っておくべきだろうか)
酔いが廻ったのかそんなことを思い始めた。
アルバスに落ち度があるのは当然のこと。相手が元々どういう魂胆でやって来たのか云々以前の問題。
(…………!)
だが、今更どの面下げて話せばいいのかアルバスにはてんで分からない。
手にはエールが入っていたからのジョッキ。その時、アルバスの頭に妙案が駆け巡る。
酒の席、相手と仲直りするには最適の場所。
男と酒を交わそう、そう思った時の行動は早い。
アルバスはジョッキを持って男に近づいていた。
「おい、小僧」
「ん? あ、これは乳……げふんげふん、アルバスさんじゃないですか」
カウンター席に座っていた男。
振り返れば絶対に忘れられない顔がアルバスの目に映る。
どこかその態度はよそよそしいものだと思った。
「小僧、俺が直々に酒を注いでやろう」
「い、いや、実は下戸でして……」
「ふん、大の男が酒を飲めないでどうする! 酒は吐いて飲めるようになるものだ!」
目の前の男に酒を進めるが、飲めないと言う。
アルバスは酔いが廻っていたことも相まってか、なんとしても男と酒を飲み、関係を修復しようと躍起になっていた。
普段なら無理強いをしないのだが、この時ばかりは違った。
「こ、コラ! 浅菜、それはジュースじゃない! カルーアミルクと言って、立派なお酒だ!」
「はれ? 美味しいですねぇコレ」
「一杯で出来上がってるって……」
今、男は生徒の方へ注意が行ってアルバスの方は見ていない。
アルバスはしめたと思い、店主にすかさず男が何を頼んでいたのか問い質す。
どうやら男はジンジャーエールと焼き鳥数本を頼んでいたそうだ。
アルバスの口端が上がる。
「店主、こちらの男に酒をジンジャーエールで割ったものを出せ。金は俺が払う。あと、俺にもエールを寄越せ」
そして、アルバスの思惑通りに男の前にジンジャーエールで割った酒が出される。
そのことに男も気付いたようで手が伸びた。
そのタイミングを逃すことなくアルバスも新たに頼んだエールへ手を伸ばす。
「小僧、乾杯だ」
「え? あ、あぁ、乾杯」
ガラスとガラスが軽く当たる。
それを避けと知らずに口へと運び、ゴクゴクと喉を鳴らしながら胃へ流し込む。
アルバスはそれを見届けた後、己もエールを飲む。
ここで種明かしをして、今朝怒ったことを謝り、このままこの男と語らいながら関係を修復する。それがアルバスの考えた物語だった。
しかし、悲しいかな、物語よりも現実の方が上手くいかないことが多いとアルバスは知らなかった。
ゆえに、目の前の出来事に狼狽する。
「こ、小僧!」
なんと男が突然倒れ込むようにカウンターに突っ伏してしまったのだ。
その理由は男が持っていたジョッキが物語っていた。男はたった一杯の酒で酔いつぶれてしまったのだ。
「ガハハハハ! なんだ、随分と弱いな!」
「……うるさい」
「うん? なんだ?」
「黄色い声で囀るな」
戦慄。殺意。憤慨。
アルバスが目の前の男から感じたのはそれだけ。
否、それだけしか感じることが出来なかった。
途端に、騒がしかった店内が沈黙で埋め尽くされる。
(もしや、小僧は怒っているのか?)
今まで酔っ払っていたアルバスだったが、背筋に走った悪寒で酔いは醒め、代わりに恐怖がアルバスを支配する。
男はそれっきり黙ってしまい、沈黙が流れていた店内に再び熱気が戻る。
しかし、アルバスは男から目が離せない。
「こ、小僧……」
意を決し、アルバスは男の肩に手をかけ、揺すりながら呼びかける。
この時、アルバスの頭の中ではこの状況を打破する言い訳を考えていたのだが、何も出てこない。
「こ――」
「黙れ」
「な!?」
ゆっくりと立ち上がる男。
顔は俯きがちだったので全部は見えないが、アルバスは見てしまった。
男の口端が吊り上がっているのを。
アルバスは無意識に自慢の対魔機を抜刀し、目の前の男と対峙する。
何故だか知らないが、今ここで立ち向かわねばならないと躯が判断したのだ。
対する男は、
「止めておけ。忠告は一回しかしないぞ」
「なにぃ?」
忠告。
コレが分からないアルバスではない。
今すぐにこの場から去れ、死にたくなければ。
男はそう言っているのだ。
しかし、アルバスはこの状況を好機と思う。
ここで自分の実力を示しておけば、ドラゴンとの戦いでも役に立つと、この男よりも役に立つという証拠になる。
ここで、今がチャンスと言わんばかりに。
アルバスは元傭兵だった。
世界を渡り歩き、そのどこの傭兵団でも常にトップにいたアルバス。
その才能を買われ、今の貴族につくことになったのだ、
その強さに定評のあったアルバスが、今朝戦力外通告にも似たことを言い渡されたのだ。
そのアルバスがこの好機を逃すはずがない。
「忠告はした。よろしい、ならば戦争だ」
(戦争だと? ふん、自分が兵器にでも匹敵すると思っているのか?)
しかし、しかしと思う。
なぜこんなにもこの男は余裕着々なのだろうと。
伝説のバハムートを倒した実力があれば、余裕着々なのにも頷けるはず。
だが、アルバスはそれを信じていない。
ただのピエロがこれほどまでに強気に出れるのかとアルバスの頭の中を駆け巡る。
だが、それもすぐにやめた。
何故なら、今ここで戦ってみればわかるのだから。
店内はいつの間にか男とアルバスの二人だけになっていた。
店主すらもいない。だが、アルバスは気にしない。
今、目の前にいる男に用があるのだから。
「行くぞ小僧!」
叫ぶ。
自分の中にあるもしかしたらという感情を払拭するかのように。
自分を鼓舞し、さぁ一歩踏み出そうというとき、アルバスの足は止まった。
否、止まらざるをえなかった。
「な……」
手に持つ重さが嘘のように軽くなる。
それと同時に地面に響き渡る鈍く甲高い音。
手元を見れば、己が自慢とする対魔機の柄。
地面を見れば、己が自慢とする対魔機の刃。
なんども手元と地面を見る。
しかし、変わらない現実。
(あ……?)
認めたくない事実。
アルバスの対魔機が根元からポッキリ折れていたのだ。
傭兵時代から長い間アルバスを支えたグレートソードを模した対魔機。
いくつもの強者を屠ってきた自慢の対魔機。
その対魔機が、今音もなく折れてしまったのだ。
「はは、はははは」
「っ!?」
沈黙を突き破る高笑い。
気味の悪いことに肩がビクッと跳ね、視線を男の方に向けるアルバス。
男はまるでそのことがどうしようもなく可笑しいと言わんばかりに笑い出し、腹を抱え始めたのだ。コレを気味が悪い意外なんと例えればよいのだ。
「貧弱ぅ! 貧弱貧弱ぅ!」
この瞬間、アルバスは理解した。
それは絶望に近い現実。
(俺の対魔機が……折られた?)
この出来事がアルバスの屈強な心をへし折ってしまった。
あれ程まで自信に満ちた対魔機を。
今まで片時も離れずにいた相棒を。
共に戦場を駆け抜けた自分の剣を。
その場から動かず、いとも簡単に折られたのだ。
アルバスはその場にガックリと膝を折った。
それは言葉に出さずとも敗北を認めた証。
男は笑う。なお嗤う。
(俺は、こんな化物に喧嘩を売っていたのか?)
それは諦め。
(兵器……兵器じゃないか……)
それは理解。
「……俺の負けだ。“先生”」
それは、敬意だった。
「……」
「……?」
突然男が嗤うのを止める。
アルバスはそれを不思議に思い、項垂れていた顔を上げる。
そこに見えたのは剣を抜く男の姿。
無表情で、アルバスを見下ろす姿。
静かにだが殺意を孕んだ修羅の姿。
悪寒。そんな生易しいものではない。
もっと別の、コズミックホラーの様な気味の悪さに似た恐怖。
男が剣を抜いている。それが意味することは一つしかない。
(俺を、殺す……!?)
男は事前に行った。忠告だ、と。
そのことをアルバスは今更ながらに思い出していた。
この男は忠告をした。それを己は無視をした挙句勝手に意気消沈しても男は終わっていないのだ、とアルバスは戦慄する。
「あ、そ、そんな……」
今朝、男を恐怖させていたあの巨漢が逆に恐怖を感じていた。
一歩、また一歩、男がアルバスに近づく。
それは死神の足音。死へのカウントダウン。
アルバスは男の歩みに対するように腰が抜けながらも少しずつ後ずさる。
やがて、背中が壁と肉薄する。
アルバスは、怖いはずなのに、今にも意識を手放したいはずなのに、その男から目を離せずにいる。
一歩。一歩。一歩。止まる。アルバスはついに目を閉じる。
そして、振りかぶり、真っ直ぐに振り下ろす。
(…………)
(…………)
(……あ?)
来る痛みが訪れない。
それとももうここはあの世なのか、と思うアルバス。
恐る恐る目を開くと、男の対魔機がアルバスの股間擦れ擦れに刺さっていた。
そして、男は冷たく言い放つ。
「これが、戦いだ」
(……なんと、敵わないわけだ)
アルバスは理解する。
男はアルバスに身をもって教えたのだ。
命を奪うということを。命を奪われる恐怖ということを。
(この歳になって教えてもらうとは思わなんだ。さすが、“教師”だ……)
男は地面に刺さっていた対魔機を鞘に納め、着ていたジャケットを翻して出口の方へと歩いていく。
その姿はまるで【勇者】の様。
「浅菜、帰るぞ」
「あぁ……まっすぐに歩け……うぇ」
そのまま、誰もいない居酒屋を出ていく男。
その時、アルバスはこう思った。
この男を目標にしようと。




