約束
最近よく夢を見る。
小学生のころの夢だ。
当時、小学校二年生だった達也は親戚の家に一週間ほど遊びに行っていた。
太陽の熱が体を貫くような暑さだったので、多分夏休みだったと思う。
細かいことは憶えていないが、いつも夢に出てくるのは一人の少女だった。
どこの誰かも分からないその少女の名前は、明日香と言った。達也と同い年だった。
そこは自然に囲まれたところで、いつも二人で川や森の中で遊んでいた。
何を話すわけでもなく、ぼんやりとした景色の中に明日香がいる。
もう十五年ぐらい前の話だ。ほとんど何も憶えていない。
ただ、この夢を見るたび、「約束ね」という明日香の声が頭の中に響く。
あの時、何を約束したっけ?
どうせ子供のころの約束なんて大したことないのだろうが、思い出せないことにもどかしさを感じた。
「すいません。そこあたしの席なんですけど」
声をかけられて達也は目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなったが、すぐに新幹線の中だと気付く。
出張の帰りだった。座れないと嫌だったので、指定席を買ったのだが、運悪く通路側しか取れなかった。
しかし、自分の席に行ってみると窓際に人はいなかった。途中で乗ってくるのかなと思い、誰か来たら席を譲るつもりだったが、仕事で疲れていたせいか、眠ってしまっていた。
「ああ、すいません」
達也は慌てて、荷物をどかす。
どうそ、と言い、その女を通すため一度立ちあがった。
その時に初めてその女の顔を見た。
驚きのあまり、固まってしまった。
「何か?」
女が不審そうに訊いてくる。
いえ、と答えるのが精一杯だった。
そこにいたのは間違いなく明日香だった。
まさか、こんなところで会うとは思わなかった。
最近、頻繁に明日香の夢を見るのはこのためだったのか。夢を見ていなければ間違いなく、明日香だと気付かなかったはずだ。
しかし、声をかけようにも相手が自分を憶えている保証がない。
十五年も前に一週間遊んだだけなのだ。憶えている可能性の方が低い。
それでも達也には隣に座る女性が明日香であることは確信している。
あの夢に出てくる少女の面影がはっきりあった。
「あの、すいません」
達也は思い切って明日香に声をかけた。
「はい?」
ビニール袋から取り出したジュースを飲んでいた明日香が返事をした。
「人違いだったらすいません。もしかして下の名前、明日香じゃありません?」
達也はこわごわと訊いた。
「そうですけど……」
明日香は突然見知らぬ男に自分の名前を呼ばれたことを気味悪がっている。
「ほら、俺だよ、俺。達也。ちっちゃい時、遊んだの憶えてない?」
明日香はすぐには思い出せなかった。
しばらく記憶をたどるように考え込んでいると、どこかでその思い出にぶつかったのだろう。あっと驚いた声を出した。
「達也じゃん。京子おばさんのところに遊びに来てた」
「思い出してくれた? 久しぶりだね」
「久しぶりなんてものじゃないよ。あれ、もう十五年くらい前だよね」
「確か、俺が小二の頃だったから、そんなもんじゃないかな」
「あれ以来、来てくれなかったもんね」明日香は少し嫌みを言った。
「しょうがないだろ。俺だって毎年行けると思ってたんだから」
「まあ、おばさんが亡くなっちゃあね」
「事故だったんだろ」
「うん。あの時は本当に悲しかったな。あそこ、子供がいなかったから本当に可愛がってくれたし。毎日、学校の帰りに遊びに行ってた」
明日香の顔が悲しそうに沈んだ。
達也は慌てて話題を変える。
「でも、本当にこんなとこでまた会えると思わなかったよ。まだあそこに住んでるの?」
「ううん。でも、帰るつもり。本当はあたし、結婚するはずだったんだ。でも婚約破棄されちゃって」
「そうなんだ」
達也は相槌を打つことしか出来ない。
「付き合ってる時はいいんだけど、やっぱり都会の人と一緒になるのは無理だったみたい。都会の人って冷たいから」
「そんなことないと思うけどな」
「そんなことあるんだって。マンションの隣の人とかにあいさつしても無視されるし、田舎から送ってもらったものをおすそ分けしても突き返されるし。だから、あたし彼に言ったの。田舎で暮らそうって。お給料だって安くていいから、あたしの田舎の方がずっと幸せに暮らせるからって。そしたら彼、何て言ったと思う?」
「さあ?」
正直見当はついたがあえて言わなかった。
「俺の今までの人生を無駄にさせる気かって。今の仕事は俺の人生の積み重ねなんだぞって怒鳴られた。これからの人生をずっと過ごす奥さんの人生よりも、たかだか入社三年の仕事の方が彼にとって大事だったんだって。それ以来、ずっと喧嘩ばっか。結局、婚約破棄になったってわけ」
わざと明るく振る舞っている明日香の姿が、余計に痛々しかった。
達也としてもその男の気持ちもよく分かる。
男の仕事は人生そのものだ。それを簡単には捨てられない。
何よりショックだったのは明日香に結婚寸前の彼がいたことだった。
その感情が、達也の初恋の相手が明日香だったことを教えてくれた。
「やっぱり、達也も彼の考え方と一緒なんだ。都会の人ってだいたいそうなんだよね」
何も言わない達也を見て、そう言ったのだろうが、心の中を読まれた気がしてどきりとした。
「そんなことないって」と慌てて弁解する。
そこで新幹線が発車した。すると、車内アナウンスが流れて、この列車の行き先を告げた。
あれっと達也は不思議に思う。
「これって東京行きだけど?」
「だからね、あたし田舎に帰る前に東京に行くことにしたの。一番、冷たい人たちのところに行って、もううんざりって気持ちになってやろうって思ったんだ。そしたら、何の思い残しもなく田舎に帰れるでしょ」
実際に東京の人がそこまで冷たいわけではないのだが、婚約破棄のせいで精神的に参っているのだろう。
「あ、そうだ。達也が帰る前にあたしとした約束憶えてる?」
「それなんだけど、思い出せないんだ。何か約束したことは憶えてるんだけど」
「ほら、早速東京の人の冷たさ、見つけちゃった。やっぱり結婚しなくて良かったよ」と茶化してくる明日香はあの当時のままのあどけなさを残していた。
「もう十五年も前の話だろ」
「あたし、二泊三日で東京にいるから。思い出したら連絡ちょうだい」
「教えてくれないの?」
「当たり前じゃん」
新幹線は二人を乗せて、東京へ向かう。あと三日で思い出せるのだろうか。
達也は東京についてから、すぐに自分の家に帰らず実家に寄った。
小さい頃からずっと東京にいるのだが、社会人になってから一人暮らしをしている。
新幹線の中では明日香とあの当時の話をした。
とは言ってもお互い曖昧な記憶しか残っていないので、なかなか話がかみ合わなかった。
そのため、当時の写真でも見れば何か思い出せるのではないかと思い、実家に寄ったわけだ。
しかし、残念ながら当時の写真は残っていなかった。
唯一の収穫は母親から話を聞けたことだった。
京子おばさんは母親の姉だった。
結婚はしていたものの、子供には恵まれなかった。
夫の家に嫁いであの田舎の家に住むことになったそうだ。
なので、母親としても気軽に遊びに行けるわけではなかったのだが、あの時はたまたま向こうの家族が遊びに来てはどうかと声をかけてくれたのだった。
明日香は近所の子供で、よくあの家に遊びに来ていたそうだ。
母親は初めは達也が退屈するのではないかと心配していたのだが、明日香のおかげでその心配が杞憂に終わった。
朝起きてから日が沈むまで二人で色んなところで遊びまくった。
それから半年も経たないうちに、おばさんは交通事故で亡くなった。
街灯のない暗い田舎道を歩いていると、人がいないと思って飛ばしまくっていた車にはねられたそうだ。
おばさんがいなくなってしまえば、その家とは全くの無関係になってしまうので、それ以来の付き合いはなくなった。
「まさか、あの明日香ちゃんとまた会うとはねえ」
母親は感慨深げに言う。
「俺もびっくりしたよ」
「でも、よく分かったね。大分、大人っぽくなってたでしょ」
「確かにそうだけど、面影は残ってたよ」
「あんた、明日香ちゃんのこと大好きだったもんね。帰りたくないって泣いて大変だったもん」
「そうだっけ?」
憶えていたが、恥ずかしいのでとぼけた。
「今、あの子何してるの?」
「結婚するはずだったから仕事辞めたんだけど、結局破談になったから今は何もしてないって。田舎に帰るって言ってた」
「あの子も苦労してるんだね」
「そうみたい」
「母さんはあの家と連絡取ってないの?」
「年賀状ぐらいは出すけど」
「明日香の家は?」
「明日香ちゃんのところは全くだね。元々付き合いのある家じゃないし」
昔話をしていたい気もしたが、時間を見ると既に夜の十時を回っていた。
「明日も仕事だし、そろそろ帰るよ」
そう言って実家を後にした。
今日中に思い出さないと、明日には明日香は帰ってしまう。
仕事中もそのことが頭の中を埋め尽くしていて、なかなか集中出来なかった。
昼になると、後輩の高橋と昼食を社内食堂でとることにした。
高橋は達也の一歳下の女の子だった。
「朝から何かぼうっとしちゃってましたけど、出張先で何かあったんですか?」
高橋が不意に訊いてきた。
「いや、仕事のことじゃないんだけど」
「相談に乗りましょうか?」
年下の女の子に相談するようなことではないと思って苦笑したが、せっかく聞いてくれるということなので、言ってみた。
「昨日の帰りに、昔の友達に会ったんだよ。友達って言っても、十五年ぐらい前に親戚の家に遊びに行った一週間ぐらいのことなんだけど」
「男の子ですか? 女の子ですか?」
「女の子」
「じゃあ、恋愛相談ですね」と急に高橋の目が輝く。
「確かに、俺、その子のことが好きだったけど、相談したいのはそのことじゃなくて、別れる前の時に俺、何か約束したらしいんだよ。それが思い出せなくて」
「相手の人に会ったんでしょ。聞けばいいじゃないですか?」
「教えてくれなかったんだよ。思い出したら会ってくれるって」
うーん、と高橋は唸る。
「その人、どんな人ですか?」
「どんな子だろう。はきはきした元気のいい子かな。あと、ちょっと変わってるかも」
「そんなんじゃ、何も分からないですよ」
「そんなこと言われても」
「最近の話はしなかったんですか? わざわざ今になって言ってくるぐらいだから、最近の出来事にヒントがあるかもしれませんよ」
あまり人のプライベートを喋るのは良くないと思うのだが、どうせ高橋が明日香と会うことはないからいいだろう。
「そう言えば、最近婚約破棄したって言ってた」
「大事件じゃないですか。その理由は聞きました?」
「考え方が合わなかったみたい。明日香は田舎に帰りたかったみたいなんだけど、相手は仕事辞めたくなかったんだって」
「明日香さんって言うんですね。それで、明日香さんは何で田舎に帰りたかったんですか?」
「極度の都会嫌いかな」
「変わってますね。普通の女の子は都会に憧れるのに」
何かが引っかかった。少しずつ輪郭が浮かび上がってくる。
「どうしたんですか?」
高橋は達也の表情が変わったことに気付いた。
「そうだ。あの時、明日香は東京に憧れてたんだ。だから、俺、大きくなったら東京に来いって言ったんだ。東京案内してあげるって」
「今、東京にいるんですか?」
「うん」
「じゃあ、間違いないですね。だから、思い出したら会ってくれるって言ったんじゃないですか?」
しかし、今さらどこを案内すればいいのだ?
既に都会嫌いの明日香にどこを見せればいいのだろう?
「でも、素敵ですね。昔、好きだった子と再会するなんて。運命感じますね」
再会を果たした今の明日香に、今の自分が出来る約束の果たし方は何だろう?
他の誰でもない達也だからこそ出来ることを探し続けた。
「どこに行くの?」
車の助手席に座った明日香が訊いてきた。
昼休みが終わる前に明日香に連絡した。
約束を果たしたいから会って欲しいと伝えた。
「東京案内だよ。俺が知ってる一番いいところへ連れて行く」
「あたしが前の彼のところに戻れるぐらい?」
達也は冗談でもそういうことは言って欲しくなかった。
思わず黙りこんでしまう。
「冗談だって。今さら戻れるわけないじゃん」
つまり、今でも戻りたいと思っているということではないかと思ったが、口に出す勇気はない。
「今日は何してたの?」
達也は話題を変えた。
「適当にぶらぶらしてた。やっぱり、東京の人は冷たいね。店員さんなんて機械が喋ってるのかと思った」
「人が多いからね。そうやらないと回らないんだよ」
車は人通りのない道を走っている。
あまりきちんと舗装されていないので、車が何度も揺れた。
そのまま二十分ほど走った。
そして、車を止める。
そこは、少し山を登ったところにある公園だった。
「ほら、着いたぞ」
達也は明日香に車から降りるように促した。
少し歩くと、東京の夜景が一望出来た。地元の人だけが知る穴場スポットだった。
その景色を見た明日香は感嘆の声を上げた。
「すごい」
「有名な夜景スポットほどは見えないけど、結構いい感じだろ」
「都会じゃないと見れない景色ってわけ? 悪くはないけど、こんなんじゃ都会好きにはならないよ」
「そうじゃないって。ここが一番、人の温かみを感じられる場所だと思ったんだよ」
「機械の明かりじゃん」
「でも、この機械の明かりもそこに誰かがいるから、ついてるんだよ。ほら、時々、ついたり消えたりしてるじゃん。あそこに誰かがいて、生活してるんだって思うと、何か人の温かさを感じない?」
「達也は変わってるからね」
「そうかな。でも、都会の人が冷たいっていうのは明日香の勘違いだよ。そうせざるを得ない社会の仕組みがそう感じさせてるだけなんだ。俺と明日香だって、あの辺に住んでる人だって変わらない。同じ人がこんなにいっぱいここで生活してるから、これだけきれいな夜景が出来るんだよ。そう考えたら、こんなに温かい景色もないだろ」
「でも、あたしはその社会の仕組みが嫌い。達也が言うことも分からなくはないけど、やっぱりあたしは田舎がいい」
「約束、もう一個あったの憶えてる?」
「あったっけ?」
「大きくなったら結婚しようって言ってたじゃん。憶えてないの?」
明日香はフフッと笑った。
「子供の頃のそんなのは約束って言わないよ」
「じゃあ、今約束してよ。大きくなったら結婚しよう」
「あんた、いつ大きくなるの?」
「明日香が結婚してくれるって言ったら」
「どうしようかな?」
「俺は仕事辞めて、あの田舎で暮らしてもいい。明日香と初めて会った場所だから」
「考えとく」
達也と明日香は誰もいない公園で手をつないだ。
煌々と東京の街を照らす明かりが二人の未来をやさしく見守っている。