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雪が溶ける前に

作者: 楠木

 その日は、記録的な豪雪だった。

 純白の結晶は瞬く間に降り積もり、人々の心を凍りつかせた。

 被害の大きい所では交通機関が完全にストップ、小さい所でも外を出歩くのは困難なほどであった。

 しかし、被害はそれで止まらなかった。

 とある山奥の村に、緊急の警報が下される。

 もうすぐ、雪崩が来ると――。


**


「……それでは、私たちはもう行くよ」

「はい……お元気で、村長」

 青崎郁斗(あおさきいくと)は村長に深々と一礼した。

 村長は掠れた声でううむ、と唸る。

「本当に、逃げなくていいのかね?」

 念を押すように村長は尋ねた。

 急遽、この村に飛んできた雪崩の警報。今もなお降っている大雪から察するに、この山を含めて近辺の地域も巻き込みかねない規模になることだろう。

 しかし、村長の目の前にいる青年は、それでもなお避難しないというのだ。

 確かに、彼の他にも村に残る人間はいる。それは生まれ育った故郷への執着から来るものであったり、あるいは、自衛隊が用意したヘリコプター数機が重量オーバーになりつつあるので自分が進んで降りた、というのもある。

 しかし、彼が残ろうとする意志は故郷への名残からくるものでも、他の避難民に対する気遣いからくるものではなさそうだった。

「本当は君には残って欲しくなかったんだが……。もう数年もすれば、君は大勢の人間を救える医師になれたはずなのにね」

「お言葉は大変嬉しいですが、あいつを見殺しにすることは死んでもできません。例え、村全体から反対されようとも」

「……そうか。君はそういう人だったな」

 村長は小さく嘆息した。彼の確固たる意志を今一度見せられては、返す言葉も無いというものだ。

 その嘆息と入れ替わりに、防寒服を着た男がこちらに駆けてくる。

「あの、そろそろよろしいでしょうか」

「ああ、そうだったね。すまない、自衛隊さん」

 自衛隊の男に催促されるまま、村長は青崎に背を向ける。その先には、既に何人も乗り込んでいるヘリコプターが、数機止まっている。

「君たちを見殺しにするようで気が引けるが、許してくれ……」

 村長は最後にそう呟くと、ヘリコプターへ向かって行った。

 青崎は、程なくして出発したヘリコプターの群を、雪に隠れるまでずっと見届けていた。


**


「ただいま」

 かぶった雪を払い落としながら帰宅の言葉を告げると、上着を適当な場所に脱ぎ捨て、一番手前の部屋の扉を開ける。

 部屋の広さは八畳あるが、家具は奥にあるベッドとその横にあるテーブルと椅子ぐらいで、後は申し訳程度にある小型のヒーターしかないせいか、余分に広く見える。

 そして、そのベッドの横に一人の女性が車いすへ座っていた。

 背中を向けていた女性は首を少しこちらへ動かし、か細い声を出した。

「お帰りなさい、郁斗さん」

「ああ、今帰ったよ、(めい)

「ここに戻ってきたってことは、許してくれたの?」

「まあね、ずいぶんと顔を渋られたけど。というか、父親にこれでもかと言うぐらい殴られた」

 頬をさすり、苦笑する青崎。それにつられて、香織と呼ばれた女性――結城明も柔和な笑みをこぼした。

 そう、今この瞬間に雪崩が襲ってきてもおかしくないというのに、二人は笑っていられたのだ。

 我を失って取り乱すでもなく、全てに絶望して諦めるでもなく、どこまでも『いつも通り』に言葉を交わしていた。

 青崎が「よっこらせ」と椅子に腰を下ろしたところで、結城が問いかけてきた。

「ねえ郁斗さん」

「うん?」

「外、どんな感じだった?」

「ああ、凄かったよ。二回りぐらい大きな雪が鬱陶しいぐらい降っていて、前なんて全然見えないわ上着を着ても寒いわでもう散々」

「それはお疲れ様」

「他人事みたいに言うなよ」

「だって他人事だもの」

 結城は白一色に染まった窓に視線を向けながら、そうおどけた。いや、正確には“閉じた目”を窓に向けながら、おどけた。

 結城明は、盲目の少女であった。

 これは幼いころからの持病であり、他にもいくつかの病を今もなお抱えている。勿論、彼女自身の目の前に、質問の対象である景色が存在していることは知らない。

 何をするにも大変で、誰かの手を借りない限り、満足な生活すらままならないし、そのせいで周囲から距離を取られていたことも、なんとなく彼女自身も察していた。

 今回のような数の限られたヘリコプターの搭乗者候補から真っ先に除外されるのも、酷だが自然なことだろう。何事にも優先順位というのは存在する。

 そういった境遇の中で極端に歪んだり偏ったりした性格にならなかったのは、幼馴染であり家が隣同士であった青崎の世話の賜物だろう。

 その当事者は自覚もせず、気楽に、かつ肩の力を抜いて、話を続けた。

「にしてもさ、父さん顔真っ赤にして、お前は医者として失格だ、お前に人を救う権利なんてない、なんて言ってきたよ」

「郁斗さんのお父さん、何かと厳しいもんね」

「まあ実際その通りなんだろうな。本当の医者なら、例え一人を見殺しにしてでも、十人を救うべきだし」

「でも、逆に救えたのがたった一人だとして、その人が将来何百人も救う名医になる可能性だってあるじゃない?」

「そりゃ勿論そうなってくれたら願ったり叶ったりだけど、褒められたものではないんだろうな。結果が何であれ、多数の命より自分のエゴを優先させた野郎なんだから」

 青崎の浮かべる笑みが苦笑から、自嘲じみたものへと変わっていく。

 やはり、村長や父親が青崎に向けた言葉は正しいのだろう。こうして、一人の女性のために他人の命はおろか、自分の命すらも失おうとしているのだから。

 医者は一人でも多くの人を助けるためにある。そこに熱意や優しさといった感情は必要であれど、私情なんてものは一番に切り捨てるべきで、そのうえ自分の命を捨てるなんて論外だ。

 ごく個人的な理由を、人の尊い命と秤にかけられるはずはないはずなのに。

 結果として誰ひとりとして救えるわけでもないというのに。

 自分は今、その選択をしている。

 全く――笑えない話だ。

 青崎の思考が自虐的になりつつあると、結城が「それでも」と、言葉を漏らす。

「その救われた一人は、正しいお医者さんより何百倍もその人に感謝すると思うな。例えば、私がそうであるように」

「……そうかよ」

 結城の言葉に、青崎は嘆息した。

「なら、その医者も本望だろうよ」

 それは決して胸を張れることではないのかもしれないけど。

 医者として間違っているのかもしれないけど。

 人として間違っている、と言うわけではないのだろう。

 青崎は表情を緩め、椅子にもたれかかる。結城も口元をほろばせるだけで、それ以上何も言わない。

 そして、部屋に沈黙が訪れる。

 窓の外でしんしんと雪は降り積もり、銀色の世界を展開している。この美しい景色が自分の命を奪うなんて、信じられないと青崎は思った。

 当然ながら人の気配は全く感じず、どこまでも静かだった。まるで、この世界で二人だけになってしまったかのように。

 普通なら一種の不気味さを感じるだろうが、青崎はこの光景が、時間が素直に素敵だと感じることができた。ただ一つ心残りがあるとすれば、この感覚を有沢と共有できないことだけだ。もし見えていれば、感嘆の声を漏らしていたのだろうか。

「……あのね、郁斗さん」

 ふと、結城がより細い声で呟いた。

「何だよ、急に」

「…………ごめんね」

「…………」

「郁斗さんは助かるべき側の人間だった。なのに、私の自分勝手な我侭で、郁斗さんの人生を無為にした。私が寂しそうな素振りをせず、強がっていればこんな事にはならなかったのに。失格なのは、私の方だよ……」

 よほど勇気を振り絞っていったのだろう、時折声が震えているのが分かった。

 そんなに彼女は青崎を滞在させたことに責任を感じ、思い詰めていたのか。

 それは、青崎郁斗の患者としてなのか、あるいは、青崎郁斗の唯一無二の幼馴染としてなのか。

 また、あるいは――

「私、初めはこの暗闇が怖かった。真っ暗で、どこかも分からない場所から声が聞こえてくるっていうのは、どうしようもないくらい不安だった。そんな私を支えてくれたのは郁斗さんだった。どんな時でも私の傍に居てくれて、いつも世話を焼いてくれて、感謝してもし足りないくらい」

「別に、感謝されるほど俺は大してことなんてしてないよ。香織が困っているから、少し手伝った、それだけだよ」

 そっぽを向いて頬を掻く青崎に、ううん、と結城は首を振る。

「それだけでも嬉しいの。不自由な生き方しかできない私には、大きすぎるくらいの幸せだった。お父さんもお母さんも病気で死んじゃって、何もない私でも、ここに居ていいんだって思えるようになったから」

 柔らかな笑みを浮かべる結城。しかしそれも一瞬のことで、真剣な姿勢に戻って言葉を続ける。

「だからこそ、郁斗さんには死んでほしくなかった。もっと多くの人を救えるって信じていたから……おかしいよね?引き留めたのは私なのに……」

 話が進むにつれ、次第に結城の肩と声は震えていく。

「で、でもね、郁斗さんが私の傍から居なくなるって、離ればなれになるって思ったら、寂しくて、胸が苦しくて……」

 結城はついに溢れだした涙を拭いながら、ごめんね、ごめんね、と繰り返し謝った。

 その姿を見て、結城がどんな気持ちで引き留めたのか、青崎の胸にも痛い程に伝わってきた。

 彼女の人生にとって青崎は、それほど大きい存在になっていた。どうやっても切り離せないぐらい大きい、大切な存在に。

 そうでなくても、真っ暗な視界の中、助けを求めても誰もいない最期、なんてものは嫌だろう。それは、救いのない彼女の人生にとって、あまりに残酷な幕切れだ。

「……ったく、お前ってやつは……」

 ため息をついた青崎は、おもむろに結城へ手を伸ばすと、

「バーカ」

「いたっ!?」

 彼女の額へ、デコピンを食らわせてやった。

「もとよりお前を置き去りにする気なんて毛頭ねーっつの。少しでも明の力になりたい、俺が医者を目指す理由はそれだけなんだから。俺も医者失格だし、これでイーブンだ。だろ?」

「ううう……気持ちは嬉しいけど、患者に暴力を振るうのはどうかと思う……」

「デコピンなんてノーカンだノーカン。俺が今決めた」

 強引な青崎の主張に、結城は思わず吹き出してしまう。

「何それ」

「お、笑ってくれた。それでいいんだよ。やっぱりお前は笑っている方が似合う」

 そう言って、青崎も笑う。最期の時間は緩やかに、しかし確実に迫ってきているというのに、笑い合っていた。楽しそうに、幸せそうに、微笑ましそうに、まるで恋人のように。

 なんでもなく、天井を仰ぎながら、青崎は言ってみた。

「じゃあさ、俺も言いたかったことがあるんだけど、言っていいか?」

「うん、なに?」

一つだけ深呼吸して、はっきりと、宣言をした。



「俺、青崎郁斗は、結城明のことが大好きです」



「――――」

 結城は息を呑み、口に手を当てたり、今度は頬に手を当てたり、顔を覆ったりと、挙動が落ち着かなくなる。

 最終的に膝の上で拳を固め、赤くなった顔でごにょごにょと言い返した。

「……私の方が先に言うつもりだったのに」

「ははっ、悪いな。こういうのは言ったもん勝ちだからな」

 青崎は結城の頭の上に手を乗せ、したり顔をする。悪い気はしないのか、結城自身も一段と嬉しそうな表情をするだけで抵抗はしない。

「明も俺のこと頼っていたかもしれないけどさ、きっと俺の方も明に頼っていたんだと思う。自分の目指す道がそれだけ辛いかよく解っていたから、その支えとして。んで気付いてみれば、お前のこと好きになってた」

 もしかしたらそれは単なる依存かもしれないけど。

 何かを請い、求める気持ちは変わらないから。

 それを恋と呼ぶか依存と呼ぶかなんて、誰にもわからないし、決められない。

 頭の上に乗せていた手を下ろし、結城の手を握る。結城の手は温たく、細すぎて、強く力を籠めたら折れそうなほどだった。

「郁斗さんの手、冷たい」

「でも、明の手は温かい。だから俺は、この温もりを守りたい。寂しい思いもさせない。お前の隣に居続ける。約束する」

 何の恥じらいもなく、告白する。

 しかしそれは、あと何分、何秒続く約束なのか、分かるはずもない。

 だからこそ、こんないきなりな告白の形になってしまったのかもしれない。

 結城が一層強く青崎の手を握る。そして、消えそうな程弱い声で甘く、囁いた。

「じゃあ………………して?」

「え?」

「じゃあ、私を好きだってこと……証明して?」

「……ああ」

 青崎は頷くと、握っていた手を離し、けれどすぐに指を絡める。バクバクと心臓の音だけがうるさく聞こえる。それで、自分も顔が沸騰しそうなほど熱くなっていることが分かった。

 おずおずと、結城の顔に近づいていく。なぜだか一メートルと無いその距離が、とてつもなく遠く感じて、焦れったかった。

 それは結城も同じようで、今までで一番真っ赤な顔で、待ちきれないと言いたげに口を強く結んでいた。

「――――っ」

 青崎は意を決すると一気に接近していき、



 そして、唇が触れ合った。



「…………っ」

「ん……っ」

 待ったのはたった一瞬だけど、しかし熟成された感情のそれは、何物にも形容しがたいほどに甘美だった。

 部屋に完全な静寂が訪れ、冷気と共に青崎と結城を優しく包みこむ。

 彼らの思いの結晶は雪のように降り積もり、そして溶け合っていく。

 もう彼らに言葉は要らなかった。伝えたいことは、その唇の感触が雄弁に語ってくれる。

 まだ結城から自分のことが好きだという言葉を聞いてなかったことも、

 一度でもいいから、この世界を結城自身の目で見せてみたかったことも、

 もっと、もっと、言い残したことは沢山ある。

 なら、全てに身をゆだね、このままでいよう。――どうせ、これが最初で最後なんだから。

 そう思い、願った二人は静かに目を閉じた。雪の奔流が二人を呑みこむ、その瞬間まで。


END


雪の結晶が手のひらに落ちて、溶けてなくなるその刹那。

それの儚さを表現しようと努めました。

投稿するのは処女作です。

「?」が浮かんだら迷わず発言してくれると幸いです。

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